荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡

「荒神谷遺跡は冒頭にも触れました通り実際には荒神谷には無く、神庭西谷にあります。神庭(かんば)はその字の如く神事に関係のある地名であり、西谷も「にしたに」と読まず敢えて「さいだに」と読むことから、古来は「西⇒さい⇒斎・祭」だったのではないか、という可能性も有り得るようです。
岩倉についても、神々が降り立つ場所である「磐座(いわくら)」を意味する、という説もあり、同様に古来より何らかの祭祀的な意味のある場所であったという可能性もあります。」
市川歴史散歩のサイトの荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡を参照。

古墳時代の前を青銅器時代と呼ぶとすれば青銅器時代に出雲が突出した王権と呼べる勢力があった証拠で、市川歴史散歩サイトの管理人さんの青銅器を「祀る」ということと国譲り神話の出雲勢力の重要性は通じるところが多い。

ただ私は市川歴史散歩サイトの管理人さんが紹介している「ちなみに『逆説の日本史』の井沢元彦氏は、更に進んで出雲勢力が近畿をも支配し、その結果として近畿で銅鐸文化が花開いた、と述べいます。」の考えにちかいです。
出雲王権が勢力を拡大して近畿に遷都してヤマト王権となった後に出雲の豪族と近畿の豪族が内紛を起こしたと考えます。出雲→物部氏→曽我氏→中臣氏(藤原氏)の様な勢力抗争。

『ちなみに『逆説の日本史』の井沢元彦氏は、更に進んで出雲勢力が近畿をも支配し、その結果として近畿で銅鐸文化が花開いた、と述べいます。

私はそうではなく、矢張り近畿には後の大和政権に繋がるものがり、一方でそれに対する出雲勢力があったのでは、と考えています。

一方、銅鐸の関連で申しますと、一方で井沢氏のご主張にも理解出来るところがあります。
銅鐸は先にも述べました通り、ある時期に一斉に埋納されます。荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の埋納をみても、無造作に捨てた訳ではなく、然し惜しげも無く全てを一度に埋めている、という状況です(左写真は加茂岩倉遺跡近くの橋にあった巨大銅鐸置物です)。

ここから判る事は何でしょうか。
私は、矢張り大きな政権交代があった、と解釈します。
古来より集団の象徴として、信仰の対象として、尊厳の証として用いてきたであろう大量の銅器を一度に大量廃棄する、しかも捨てるのではなく清々と場所を作って並べて埋納する、ということは、止むに止まれず埋めなければならない、然し、捨てるといった銅器への尊意は失った行為ではない、ということは、強制的にそうせざるを得ない状況においこまれた、と考えるのが妥当だと思ってます。

私が一連の文献と遺跡、遺物から想像する世界を纏めますと以下の通りです。

①当時近畿地方には大和政権の前身が既に勢力を持っていた。
②この勢力はかつては銅鐸を祭祀に利用していたが、王権を確立しつつある中で神権の象徴は不要となり銅鐸は既に文化の中から排除していた。
③一方、出雲にはこれに対抗し得る勢力があり、独自の文化圏を築いていた。
④出雲勢力は近畿勢力では既に捨て去られていた銅鐸をまだ祭祀に用いていた神権政治政権だった。
⑤ついに近畿勢力と出雲勢力が衝突し、近畿勢力が勝利した。
⑥その結果、出雲勢力の象徴と化していた銅鐸は処分されることとなり、またこのときの状況が出雲神話や『記紀』に残った。

本当の真実は永久に明らかにはならないと思いますが、然し出雲という国は、色々な想像力を掻き立たせてくれる場所だと思います。』

支持します。

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