2006.01.10~01.30 受傷-高度救命救急センター

受傷して救命救急センターに搬送されてからリハビリの為に転院するまでのエピソードです。 
2006.01.10 03:07過ぎ「やってもうた」
2006.01.10 03:30頃 ピーポーピーポー♪で一路吹田へ
2006.01.10 4:00頃~朝 高度救命救急センターに入院
2006.01.11 とアラームと共に入院生活がスタート
2006.01.11 煙草は体に良くないでした
2006.01.12~ どんどん身体が変わっていくEpⅠ
2006.01.12~ どんどん身体が変わっていくEpⅡ-ICU症候群
2006.01.12~ どんどん身体が変わっていくEpⅢ-尻がムズムズ
2006.01.12~ どんどん身体が変わっていくEpⅣ-「すみませーん!」は元気な証拠
2006.01.12~ どんどん身体が変わっていくEpⅤ-みぞおちを押してもらって廃痰
2006.01.12~ どんどん身体が変わっていくEpⅥ-プチ・モルモット
2006.01.17頃 リハビリを始めないといけないEpⅠ
2006.01.23頃 リハビリを始めないといけないEpⅡ
2006.01.23頃 リハビリを始めないといけないEpⅢ
2006.01.30 寝台自動車は行く

大阪大学医学部附属病院高度救命救急センター

2006.01.10 03:07過ぎ「やってもうた」

 成人の日の連休最後の深夜。えべっさんの未明。明日から仕事というのに値酒を飲んで3時過ぎまで起きていて、2Fの洗面所から自分の部屋に戻る途中か、部屋から1Fに何か用があって下りようとしたのか、その瞬間だけの記憶がない。
 記憶があるのは階段を頭を下に向けて仰向けとなり手すりが見えたので(という事は階段の電気を付けていたので下りようとしていた事になる)手を伸ばして掴もうとしても全然力が入らない。
 あれ何で?と思う間にもう一回転して次に視野に入ってきたのは階段下の1Fの床。頭から落ちていくのに手を伸ばして受け身がとれない。床に思いっきり左の額を打ち付けて床に仰向けに大の字に転がった。
 打ち付けた額がヒリヒリ、ジンジン痛むのとあちこちぶつけた為か身体中が痺れたようになっている。一息付いて、と思ったがうまく息ができない。とりあえず身体を起こそうとしても首から下が痺れてぴくりとも動かない。首を左右に動かせるだけで持ち上げることもできない。実家に住んでたので大声を出して親を呼ぼうとしても蚊の鳴くような声しか出ない。夜中に寝酒が過ぎるといつか何か良くないことが起こるとは思ってたが、まさかこんなことになろうとはさすがに「想定の範囲外」。声にならない声で呟いた「やってもうた」。

2006.01.10 03:30頃 ピーポーピーポー♪で一路吹田へ

 ちょっと時間が経てば痺れが取れて動くようになるかと、何回か体を動かそうと試みたが肩から下はピクリともしない。相変わらず息も小さくしかできない。やっぱり、これはただ事ではない。酔っぱらっていたはずだが、酔いはどこかに吹き飛んで何故か頭は冷静だった、と思う。しかたがない。本当にしかたがないので親がトイレに起きてくるのを待つ。
 頭を玄関に向けていたので、足元の方の親が寝ている部屋の引き戸が開く音がする。間もなく父親がやってきて「どうしたんや」。
 蚊の鳴くような声で「身体が、動かへん、から、救急、車、呼んで」。
 「どういう事や、何でや?」
 「階段、から、落ちた」
 「えぇー?また、何でや?」
 「目まい、が、したのか、よぅ、覚えて、へん」
 「とにかく、救急、車」
 119番に通報してもらって、付き添う支度してらっている間。天井を見つめて、何故手すりが掴めなかったのかいくら考えても分からない。そもそも何故階段を落ちたのかが思い出せない。そもそもあと数時間で起きないといけないという時刻にまでコンビニまで行って酒買って飲んでるよう生活してたら遅かれ早かれ、こんな事が起きても不思議じゃないわなぁ・・・。はぁ、はぁと息が苦しいなぁ。職場に連絡もできないなぁ。とか、短いような長いような時間が経って、遠くからピーポーピーポー♪と救急車のサイレンが聞こえてきて、だんだんと音が近づいてくる。自分の為の救急車でありますようにと祈りながら(無神論者ですが)待っていた。
 救急隊員の人が入ってきた。状況を父から聞き、自分にも何か聞かれたと思うけど、覚えているのは「息が、苦しい、から、酸素、マスク、付けて」と繰り返していた事だけ。ストレッチャーに乗せられて救急車の車内に運ばれる。車の中で救急隊員が受け入れ先の病院を探している様子。やっぱり息が苦しくていっぱいいっぱいになっていたらしく、なかなか発車しないのにいらいら。ようやく救急車が走り出した。「よかった。何処かの病院が受け入れてくれた。」走り出しただけで少しほっとした。

2006.01.10 4:00頃~朝 高度救命救急センターに入院

 どれくらい乗ってただろうか。かなりの距離を乗ってた気がする。車が停まって、ストレッチャーで建物の中へ入っていく。名前とか聞かれたり、どうしたのか聞かれたりしただろうが、その辺の事は断片的に順序がばらばらにしか覚えてない。しきりに、息が苦しいから酸素吸わせてくれ、と出ない声を絞って言ってたが、しゃべる元気があるなら大丈夫とでも思われてたのか、「落ち着いて、深呼吸して」と言われてただけに思われた。
 かつて某横領放送局が放映していたERはリアリズムと命の現場の緊張感が好きで好きなドラマだった。まさかこんなかたちで自分がリアルERにお世話になるとは想像してなかった。ドクターやナースじゃないんだからこんなかたち(救急患者)でしかお世話になるケースがあるわけないだけど。呼吸ができなかったら挿管して、首の骨が折れていたら緊急手術になって「どうなるんだ、オレ!」という不安で、リアルERどころの話ではなかった。
 赤い光がぐるぐる回るCTを撮影して、空港の滑走路端で聞くジェット機の騒音よりフルボリュームのロックよりうるさいMRIを撮って。先生の診察。
 CTを見て「骨には変形があるけど骨折はないなぁ・・・」
 「首は動きますか?」
 首を左右に振る。
 「肩は上げられますか?」と肩をすぼめて見せてくれる。
 肩をすぼめる。すぼめたつもりで実際はピクっとした程度でほとんど上がってないのを知るのは、かなり後の事になる。
 「腕は曲がりますか?」と肘を曲げて見せてくれる。
 全然曲がらないし、痺れていて感覚もない。
 「足は動きますか?」
 腕と同じで動かないし、感覚もない。その時、右足の人差し指が動いた。あ、と心の中で呟いてもう一度トライしてみる。確かに少し動いた。
 しかし指以外は全く反応がない。動かす以前に、肩から下は感覚がなく、1時間以上正座させられていて痺れきった足を叩かれているようなジンジンした痛みにも似た痺れに覆われている。
 次に先生は先に三角のゴムの付いた棒を出してきて、肘や手首の辺りをトントン。膝やくるぶしの辺りをトントンして、
 「反射は残ってるなぁ」と独り言のように呟いた。
 だから何?反射が残ってたらどうなの?と聞けばよかったけど、何故もっと詳しく聞いてなかったのかと思うけれど、その時は聞くだけの元気も無かったのかもしれない。
 それで、骨折もないし、手術しても良くなる可能性がないので、脊髄損傷の受傷時の24時間だけ効果があるという何かの点滴をして経過を見るしかないという診断。その日の昼か午後くらいか(実際は半地下で窓はブラインドが下りていて明かりが入らないので分からない)一度着替えとかを取りに帰った父と姉や義兄も見舞いに来てくれた。それで、また別の先生が来て同じような診察。それで改めて家族に症状を説明してくれる。
 その時も一緒に説明を聞いていた筈なのに、やっぱりさっぱり覚えていない。その時に見舞いに来てくれた姉に足の指が動かせるのを見せたことだけは姉も覚えていたので確からしい。子供の時からそうだが、ここに至っても人の話をちゃんと聞けないようだ。困ったもんだ。

 そうそう、担ぎ込まれてじきにペニスにカテーテルを突っ込まれてました。ショックで尿が止まると非常に危険だそうです。その時に聞いたのか後から聞いたのかは定かではありませんが・・・。

2006.01.11 ピー!ピー!とアラームと共に入院生活がスタート

 診察の後、看護師さんの問診。食べ物でアレルギーがあるかとか酒や煙草とかをどれくらいたしなむのかを聞かれ、「煙草が多いですね」と言われて、その時にはまだ、その後にくる苦しい思いを知らずに、ふぅーんと聞き流していて、阪大病院なら大丈夫だろうと、大丈夫でない自分の体を甘く考えていた。
 まずは息が苦しい。その原因が怪我によって腹筋が麻痺していて胸式呼吸しかできないので換気が不十分ということもあるが、煙草の吸い過ぎで肺の喚起能力自体が衰えている為らしい。上向きでずっと寝ていると背中側の肺に水が溜まって肺炎になるとの事で3時間ごとの体向と、鼻と口を覆うマスクを付けて息を吸う時に加圧されて胸式呼吸を身に付ける練習(CPAP?)が30分を1セットとして1日4回だったろうか。それ以外は介助で食事を食べさせてもらうのとカテーテルから出た尿を捨ててもらうこと。喉が渇いたらお茶を飲ませてもらう事。
 ICUと入院病棟を兼ねている部屋で1日ほどはスタッフルームに近い場所にいて、落ち着いたら奥から2列目の場所に移動。しかし、元の場所も移動した場所でもやたらピー!ピー!とアラームが鳴りっぱなしで微妙にうるさい。バイタルを計測している装置のアラームらしく、誰か瀕死でやばい人がいるんだと思ってたら、看護師さんが「酸素飽和度が低いねぇ」と困った様子。瀕死でやばい人は私だった。・・・息が苦しいので笑えねぇ・・・。

2006.01.11 煙草は体に良くないでした

 その日の夜から悪夢は始まった。昨日、階段から転落する直前まで1日に3~40本は吸ってたので多分肺は真っ黒け。ひどい時は喉が痛くてビタミンCのタブレットをしゃぶりながら吸ってたので、当然痰が溜まってくる。普通に息をするのもままならないわけだから自分で痰が出せない。痰が絡んだ声で「すみませーん!」と看護師を呼んで、鼻か口からカテーテルを気管に入れて痰を吸い出してもらう。硬めのカテーテルを鼻に入れられて痛かったりするのは、それはそれで辛いけど、その時だけだしカテーテルの種類をソフトなものに変えてもらうだけで解決する。
 気管にカテーテルが入った時が一番辛い。息が止まって、刺激で虫の息の咳が出る。自分で痰が出せないので奥の方までカテーテルを入れないと痰が吸いだせない。一度取ってもらっても暫くすると痰が絡んでくる。ゼーゼーしてるだけなら我慢して咳込むようになればまた「すみませーん!」を繰り返す。
 そして3時間ごとに体向。うとうとして、咳込んで目を覚ましたり、体向で肩や首が痛くなって目が覚めて、熟睡する暇がない。真剣に煙草を止めようと思った。

2006.01.12~ どんどん身体が変わっていく

 ベッドサイドにはバイタルのモニターの他に1つづつのテレビがあって、消灯までは自由に見られる。その時見たテレビでよく覚えてるのは怪我した日の朝も何もなければ横を通ったであろう木津市場で、十日戎に奉納する鯛を手配する市場の人のドキュメント。私は兵庫県出身なので戎さんといえば西宮神社(福男で放送される神社)しか行ったことがなかったが、大阪なら今宮戎。その膝元の木津市場は歴史ある鮮魚市場。浪速の台所である。小売りは黒門市場が有名だがその卸売市場が木津市場となる。
 転落してなかったら、そこを歩いていて職場で「木津市場に取材がきてたな」とか会話していただろうと思いながら、「ふっ」程度のため息しか出ない自分がベッドに横たわっている。しかし、これが夢ならというセンチメンタルな感情はなく、後戻りのできないY字路で道を間違ったなという後悔に近い感情だった気がする。

 昨日までは動かせた足の指はピクリともしなくなった。後でショック期に受傷直後に動いた部位が脊髄の腫れで動かなくなると知ったが、その時はそんなことも知らないので怪我が進行しているのかと思って悲観的になっていた。
 呼吸は看護師や医師から胸で大きく呼吸してと言われてもちょっとした事で小さい息になって息苦しくなるし、痰ばかり溜まって息が苦しいし、寝不足と微熱で頭がボーーっとしている。
 医師がレントゲンをよく調べたら、一番下の首の骨の突起が骨折してたのでコルセットを作ってはめて下さいと言われた。父が業者を紹介してもらって注文して作ってはめたが、これが体向の時に首に食い込んで痛い。おかげで慢性的な睡眠不足になってしまった。
 カテーテルからの尿には白いモロモロが混ざって濁っていて、説明ではカルシウムが排出されてるという。見ていて粒粒入りミカンを思い浮かべるくらいだった。
 受傷した時より悪くはならないと考えていたが、予想以上に、どんどん身体が変わっていく。

2006.01.12~ どんどん身体が変わっていくEpⅡ-ICU症候群

 眠れない夜が続くうちにだんだんおかしな幻覚を見るようになってきた。消灯後なので夜なのだが、救急の患者が運び込まれて処置をしてるのがスタッフが宴会をしているように聞こえてくる。かすんだ目で見るとテーブルを囲んで楽しそう。こっちがこんなに苦しんでるのに楽しそうに宴会してるのに腹が立って来る。
 「すみませーん!」
 スタッフが来る。
 「すみません。幻覚見てました。」
 スタッフが去る。
 ・
 ・
 ・
 「すみませーん!」
 スタッフが来る。
 「すみません。幻覚見てました。」
 真剣に心まで病んできたかと情けなかった。これがICU症候群という症状と知るのは1年以上も後の事になる。

2006.01.12~ どんどん身体が変わっていくEpⅢ-尻がムズムズ

 入院4日目くらいに看護師さんから3日間お通じがないので下剤飲んで下さいと言われて下剤が出てきた。そういえば尿はカテーテルから出ているが便が出てなかった。
 翌日、いつもの体向より大きく左側に体を向けられて排便の準備が始まった。そうそう子供の時に見た家庭の医学の挿絵と同じだ。準備が整ったら浣腸液が注入される。
 暫くすると便意が襲って来てめでたく排便完了。と思いきや、何か違う。かすかにお尻がムズムズする感覚がある。それは新しい発見で嬉しかったけど、ムズムズするだけでそれからうんともすんとも変化がない。「きばれますか?」と聞かれて「きばれると思います」と自信満々で答えたのは良いが、力を入れてるつもりだけで身体のどこにも力が入ってない。
 「テキベンします」と言われて、何のことか分からないけど想像がついたので「はい、お願いします。」
 怪我した後から食欲がなかったとはいえ、治療にせよ何にせよまず食べて体力を維持することが大事とは思っていたので食事だけは摂っていた。何故かバナナは食べきらなかったけど・・・。
 で、ムズムズが少し続いて「たくさん出ましたよ」と言われて排便が終了。あれ?お尻がムズムズしただけで便意も感じないまま、すっきり感も分からずに終了した。やっぱりいろんな意味で大変なんだ。「どうなるんだ!オレ!」いやマジで。

2006.01.12~ どんどん身体が変わっていくEpⅣ-「すみませーん!」は元気な証拠

 入院3、4日目くらいから酸素飽和度が80%以上となり、ピー!ピー!が収まってきた。
 アラームが鳴らなくなったら平常値なのかと思ったら、通常は95%以上あるのが当たり前と聞き、まだまだ先が長いというより、95%なんて無理なんではとさえ思える。普通の検査とかなら標準値の80%なら大丈夫と思ってしまうが、酸素飽和度はそうではないらしい。
 自覚症状としては呼吸はだんだんと楽になってきたが、問題は痰の絡みだ。痰が絡んでよく眠れない。胸式呼吸の練習の時にマスクを付けてる時も痰が絡んで咳込んでしまい、咳込むといっても力が入らないから廃痰できずに息が止まっているに等しい状態で、パニクって「はっ、はっ、はっ」と息が小さくなって呼吸困難みたいになる。ベッドの頭をギャッジアップして上げている時は痰が下がっているせいか少しましだが、頭を下げた時に倍返しで痰が絡む。
 痰が絡んだ時や↑のように用がなくても人を呼ぶが、仕事とはいえ苦言一つ口にすることなく対応してくれる看護師の皆さんに感謝感謝である。しかし、ここは高度救急救命センターである。毎日何回も救急車で重篤な患者さんが運ばれてくる。その処置にあたっている時は、よほどのやばいアラームが鳴ってない限り「すみませーん!」は元気な証拠、というわけになる。やばそうなアラームは鳴らさなかったし、聞かずにも済んだ。

2006.01.12~ どんどん身体が変わっていくEpⅤ-みぞおちを押してもらって廃痰

 いくらか胸式呼吸が身に付いてきたのか、マスクを付けながらでも、うとうとできるようになってきた。若しくは慢性的な寝不足なだけだったのかもしれない。廃痰も咳込むことはできないけど、頭を低くして息を吐くときに力を入れるようにすると少しずつ痰が上がってくるようになってきた。
 そんなある日、ある看護師さんに痰を出そうと力を入れて息を吐く時にみぞおちを掌でグッと押してもらったら、咳込むことができた。押してもらって咳込んでいると少しずつ痰が上がってきて、何回目かの時にとうとう廃痰ができた。
 この方法で廃痰できると息が止まって苦しくて涙まみれになるカテーテルでの廃痰から解放されるかもしれない。私にとっての小さな一息でも人生にとって偉大な飛躍、いや咳払いだ、というくらいに嬉しかったし感激した。
 ただ両手放しで喜んでもいられなかった。みぞおちを押すにも微妙なタイミングと力加減が必要で慣れたベテランの看護師か何回も世話になったことのある息が合った看護師さんでないと、ただ平手でボディーブローをくらっただけで痰とは別のものが上がってきそうになってしまう。やっぱり少しでも楽になりたいのでタイミングの合う看護師さんがベッドのわきを通るまで我慢。で、さも急に痰が絡んだのごとくお願いするのだが、頻繁に頼んでいるのでバレバレだったんだろうなぁ。

2006.01.12~ どんどん身体が変わっていくEpⅥ-プチ・モルモット

 ある日の排便時、担当の若い先生と違って50代半ばくらいの先生と学生たちの一行がやってきた。何かの実習に協力してほしいとのこと。毎日お世話になっている病院の先生からのお願いなので断る理由なんてあるはずもないので快く承諾する。しかし、何故また排便の時にと思ってたら、お尻にちょっとだけ慣れてきたモゾモゾ感が。
 先生曰く「ほら、こう刺激すると収縮するやろ」うんぬん。直腸反射の実習だったらしい。

2006.01.17頃 どうなるんだ!オレ!-リハビリを始めないといけないEpⅠ

 担当の先生ができるだけ早くリハビリを始めないといけないが、ここ(阪大病院)では頸髄損傷のリハビリができないのでリハビリができる病院を探さないといけないと言う。リハビリというのが症状・状態によって病院まで変えないといけないという事を初めて知った。
 関西では大阪府枚方市の星ヶ丘厚生年金病院と兵庫県尼崎市の関西労災病院の2か所が有名だとか。関西労災病院なら子供の時に入院もしたことがあるしバス1本で行けて近くて便利なのだがリハビリには家族の協力が必要らしい。両親は高齢だし身体も弱っているので諦めざるをえない。消去法で星ヶ丘厚生年金病院に転院の手配をしてくれることになった。星ヶ丘厚生年金病院の整形外科には知り合いも居るという心強い話だったので、それは好都合と感謝と運が良かったと思った。

 しかし、それから1週間経っても星ヶ丘厚生年金病院から何の音沙汰もなく転院の話が進まない様子。ベッドの空きが無いとかそんな話もないらしい。もう一度強く言ってみるとの先生の話に頼らざるをえないが、これは裏に何か転院を受け入れがたい事情があるのかと思えてしまう。実際、転院後にいろいろあった。
 結局、転院の話を始めて2週間後の1/30に星ヶ丘厚生年金病院に転院が決まった。

2006.01.23頃 どうなるんだ!オレ!-リハビリを始めないといけないEpⅡ

 転院先が決まらずに受傷後3週目に入った日に初見の先生が入ってきてちゃんとした(頸髄損傷の)リハビリではないけど、ベッドに寝たきりは良くない。1日に少しの時間でも上体を起こした姿勢をとろう。という事でベッドからストレッチャーに移乗する事になった。
 その移乗が大変だ。受傷した頃は体重が88kgあった。怪我してから食欲がなくなってたのと、カルシウムが排泄されていって骨肉が痩せたとはいえ見た目は変わらないので80kg以上はあるはずである。従って2,3人では足りずに4人がかりでの移乗となった。救急車で運び込まれてCTやMRIの検査以来の移乗なので私の方は緊張しまくっていて、かといって身体はだらんとして、なすがままである。
 ストレッチャーに寝たあと、上体が起きてきて頭が高くなってきた。それから足と腰も曲がってきて座っているのに近い姿勢にしてくれた。かなりリクライニングしたような姿勢であるけど、ベッドで寝ていて頭を上げているのとは全然違う。
 まず視点が高いので見える景色が全然違う。初めて病室の全体が眺められた。ベッドは全部で16床くらい。窓は東と南側にあるらしい。ストレッチャーに乗った時にしきりに気分が悪くならないか、目まいがしないかと訊かれた。その頃はまだショック期だった為かどうかは分からないが全然何ともなかった。後から起立性低血圧を嫌というほど思い知らされるのだがこの時は、やけに親切で心配性な先生だなと不思議に思っていた。
 初日は病室で30分程度、座位に近い姿勢で寝ているだけだった。座位の姿勢をとるだけでもリハビリになるという事らしい。と、この頃は座っているだけでの重要性を理解してなかったし、身体も分かってないようだった。

 病室で座位をとっていて大丈夫なのが分かると、ストレッチャーに乗ったまま病室を出て病院内を見学させてもらった。
 病室を出て左右に手術室やCT・MRIなどの検査室が並ぶ廊下を進むと正面に鉄の扉がある。それを開けて出ると、そこは大学病院の広い廊下で、患者や職員が行き交っていて、それだけで別世界に来たような感じがした。
 廊下を斜めに横切って進んだところにリハビリテーション室があった。広さは学校の教室くらいで、数人が手足を曲げたり伸ばしたりしていた。
 次に向かったのがエントランスと受付・会計のカウンターのあるホール。今まで閉じこもっていたせいかも知れないが、2、3階までの高い吹き抜けになっていてホテルのロビーかのような広さっだったように思えるほどの開放感があった気がする。

 阪大病院でのリハビリの最終日がやってきた。この日は車いすに乗ってみようという事になった。「え?大丈夫なん?」と怪我をしてなければ心臓バクバクものだったが、先生が大丈夫と判断したんだし断る理由もないし、せっかくの申し出だったんでYes。それでリハビリテーション室にいた職員を集めて4人がかりで車いすへの移乗である。身体がストレッチャーから浮いて車いすに。座った時の感触は座った姿勢にはめられた感じっだったか、あまりグラグラした感じではなかった。病院の入口に置いてあるような普通の車いすだったはずだが、当時の状態で座れてたんでちょっと記憶が怪しいかもしれない。自分でバランスがとれないから落ち着かないけど、多分、体幹は何かベルトで固定していたんだと思う。
 車いすに乗れる状態に回復できるのかどうかとか不安があったので、ただ車いすに座らされているにしても、乗れた事実が嬉しかったし、感激した。
 車いすに乗ったまま押してもらって廊下の突き当たりのドアから外に連れ出してくれた。あいにくの雨だったが、そんな事はどうでもいい。久しぶりの外気に触れて気持ちよかった。それだけで良かった。

2006.01.23頃 どうなるんだ!オレ!-リハビリを始めないといけないEpⅢ

 この頃から時々右足がピクッ、ピクッと動くようになってくる。当時は痙性(けいせい)という言葉も内容も知らなかったので、診察の時に足にも反射が残ってると医師が話してたので何所かがの刺激で反射が起こってると思っていて寝る時に気になるなぁ、とぼんやり思っていた。

2006.01.30 寝台自動車は行く

 転院の朝が来た。担当の先生が「今からのリハビリが大変なので頑張って」と玄関まで見送りに来てくれて励ましてくれた。

 何年経つか分からないがきっと元気な姿でお礼に伺おう、と心に決めた。もし、歩けたら歩いて、歩けなくても立てたら立って、立てなければ車いすで、必ず自分の力でここに戻ってお礼を言おう。それを実現することをリハビリの目標にしようと心に決めた。
 物品は受け取ってもらえないから花がいいかとか考えながらストレッチャーで寝台自動車の中へ。

 寝台自動車は救急車というより霊柩車に似ている気がする。出発したのが吹田で転院先は枚方なので中央環状線から国道1号線で行くはず。まず吹田インターで渋滞してとか考えながら、付き添ってくれた父と話は全然覚えてないなぁ。
 1時間くらい乗っていただろうか。信号待ちで止まった時「星ヶ丘厚生年金病院に着きました」と声がした。

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