終末期古墳は何を語るか 相次ぐ調査成果、被葬者論も盛んに:朝日新聞デジタル より
終末期古墳は何を語るか 相次ぐ調査成果、被葬者論も盛んに
編集委員・中村俊介
2021/11/26 10:00
中尾山古墳で確認された3重目の外周石敷き=奈良県明日香村
大勢の歴史ファンが集まった昨年の中尾山古墳の現地説明会=奈良県明日香村
終末期古墳が築かれた7世紀は、古墳時代と律令期をつなぐ飛鳥時代と重なる。モノである考古資料と信憑(しんぴょう)性の高い文字史料とを併せ持ち、初期国家が胎動しつつあった時代だ。近年の調査で新事実が相次ぐ終末期古墳の世界をのぞいてみよう。
この時代、政治の中心となった奈良県明日香村周辺には終末期古墳が密集する。前代までの肥大化した巨大古墳に比べればぐっと小ぶりだが、八角形だったり石室内に壁画があったりと、それまでにない特徴を持つ。『日本書紀』にきら星のごとく登場する歴代天皇や重要人物と関連づける被葬者論も盛んで、近年の発掘成果も拍車を掛ける。
国営飛鳥歴史公園内の中尾山古墳では昨秋、同村と関西大学が調査成果を公表し、文武天皇を葬る可能性をさらに高めた。凝ったつくりの横口式石槨(せっかく)と3段の墳丘を持つ天皇特有の八角墳で、壁画で有名な高松塚古墳とは目と鼻の先だ。「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」としてユネスコ世界遺産の登録をめざす一環で、外周の石敷きが3重にめぐることなどが新たに明らかになった。
埋葬主体の石槨内部は遺体をそのまま納めるには狭すぎるため、火葬骨を入れる骨蔵器が置かれていたらしい。その状況は『続日本紀』が文武天皇の墓と記す「檜隈安古山陵(ひのくまのあこのみささぎ)」と特に矛盾はなく、関西大の米田文孝教授は「古墳自体は小さいが、手がかかっている。基壇も造っていて大土木工事だ」という。
一方、仕上がりに甘さを認めるのは、文献が専門の西本昌弘・関西大教授。西本さんがみるところ、天武・持統陵とされる野口王墓など他の八角墳に比べて中尾山古墳のコーナー部分は粗略で簡略、やや丁寧さを欠き、「手抜き感がある」。理由は、平城遷都にあたって文武の墓が中尾山古墳から北に移ったからではないか、というのだ。
文武は母の元明天皇や姉の元正天皇より早くこの世を去る。都が藤原京から北の平城京へ移るのは文武の死後、母が天皇位を継いでいた710年だ。西本さんは母子3人が平城京の北に眠るとある『東大寺要録』(12世紀)の記述を引き、「母の元明としては息子を飛鳥に置くのはしのびない、分骨して自分の墓に合葬してほしい、と願ったのかも」。息子を思う母心が中尾山古墳の仕上がりの甘さにつながった、というわけだ。
なるほど推古や斉明といった女帝が子や孫らと一緒に眠ることを望んだ例は多い。元明もまた、そうだったのか。賛否を呼びそうだが、少なくとも中尾山古墳の性格を再考する必要があるのでは、と西本さん。
一方、明日香村西部に位置する牽牛子塚(けんごしづか)古墳でも、新たな発見が記憶に新しい。
古くより斉明天皇の墓と見られてきたものの断定するには時期尚早だとの声もあったが、2009年からの発掘調査で八角墳であることを確認。南側に隣接して古墳が発見されるなど『日本書紀』の記述とも合致した。
明日香村教育委員会文化財課調整員の西光慎治さんは「牽牛子塚から野口王墓、中尾山へと八角形を踏襲しながらシンプルな形状になっていく。牽牛子塚をモデルに、中尾山はその集大成、終焉(しゅうえん)を飾るものだろう」という。
宮内庁と学界、見解が分かれる例も
終末期古墳の被葬者について、宮内庁と学界の見解が食い違う例は珍しくない。墓誌を入れる習慣がほとんどないため、なかなか断定できないのだ。文武陵と宮内庁が認めるのは依然として中尾山古墳の南にある栗原塚穴古墳だ。
明日香村文化財課調整員の西光慎治さんによれば、終末期古墳の概念が一般化したのは高松塚古墳の壁画発見が話題を呼んだ1970年以降。半世紀ほどしかたっておらず、年代観もいまだに揺れ動くなど課題が多い。にもかかわらず明治期以来、被葬者をめぐる宮内庁見解は固定されたまま。だが、近世史料からみれば、江戸時代の被葬者論はむしろ、「流動的で可変だった」(関西大非常勤講師の今尾文昭さん)。
たとえば、天武・持統天皇陵が通説となった野口王墓古墳もかつては文武陵との見方があったし、地元では実在に賛否のある武烈天皇の墓とも認識されていたようだ。いまの見解が定まったのは、近代になって、その傍証となる『阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)』が確認されてからだ。
中尾山古墳もかつて欽明陵と見なされていた節がある。隣接する高松塚古墳も文武陵と考えられたことがあった。
いま考古学の進歩を通して多くの古墳の築造年代が固まりつつあり、被葬者の絞り込みも可能になってきた。それが宮内庁と学界のずれを生じさせている。
一昨年、5世紀の中期古墳を中心とした「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)が世界遺産登録され、学術的に確証のない特定天皇の名を冠する名称が複数の学会に問題視された。だが、宮内庁に陵墓名を再検討する動きはなく、終末期古墳でも変わりはない。
被葬者をめぐって再考の余地を残していた「可変」的な近世。対して現代は、その余地のない「不変」的な時代のようにも見える。陵墓をめぐる悩ましい状況が解消される日は、まだまだ遠そうだ。(編集委員・中村俊介)