神戸新聞NEXT | 明石 | 7~11世紀の集落跡発掘 有力氏族が居住か 過去には埴輪片、工房跡出土 より
明石
7~11世紀の集落跡発掘 有力氏族が居住か 過去には埴輪片、工房跡出土
2021/07/30 05:30
出土した播磨国府系瓦(明石市提供)
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兵庫県明石市は、旧明石郡で最古の寺院跡「太寺廃寺跡」近くの住宅建設現場(同市太寺1)で、7世紀前半~11世紀後半の集落跡が見つかったと発表した。祭祀(さいし)用具や、当時の公的施設で使われたとみられる瓦なども出土。専門家は、太寺廃寺の創建と、その後にできた「駅家(うまや)」の管理に関わった有力氏族が住んでいた可能性が高いとみている。(長尾亮太)
市の発掘調査は、住宅建設に伴って5~6月に行われた。調査場所は、高家寺境内にある太寺廃寺跡の南西約300メートル、月照寺の北約150メートルに位置する。
地下約60センチの飛鳥時代(7世紀前半)の地層から、柱を据えるための15基の円形穴を確認。穴は直径約70センチ、深さ約55センチ。柱穴列から少なくとも7・5メートル四方の掘っ立て柱建物跡と分かった。
また、いずれも祭祀に使われたとみられる石製の紡錘車(ぼうすいしゃ)(直径4・3センチ、高さ1・6センチ)、皿形の杯身(つきみ)(直径14・8センチ、高さ4・2センチ)、杯身に脚が付いた高杯(たかつき)(直径11・8センチ、高さ13・6センチ)など7点の器も見つかった。これらは野焼きで作られた土(は)師(じ)器ではなく、登り窯で焼かれた須恵器だった。
奈良-平安時代の地層からは、掘っ立て柱建物の柱跡約80基、瓦2点などが見つかった。この瓦は播磨地域の公的な建物でよく使われる「播磨国府系瓦(はりまこくふけいかわら)」だったことから、中央と地方間の連絡を担う役人が馬を乗り継いだ「駅家」との関連がうかがえるという。
播磨国府系瓦は、奈良時代に播磨国司が直属の工房で作らせ、国の役所である国衙(こくが)や駅家などの公的施設に配布したと考えられている。
他方、平安時代の法令集「延喜式」や歴史物語「大鏡」に出てくる明石駅家の所在地は特定に至っておらず、太寺廃寺▽上ノ丸地区▽大蔵中町遺跡-の周辺などが候補地に挙がっている。
見つかった奈良-平安時代の掘っ立て柱建物跡は柱穴が直径約30センチと大きくなく、雑器が出土していることから、周辺に駅家があり、連絡役の役人や馬を世話する人の集落だった可能性が高いという。
稲原昭嘉・市文化財担当課長は「7世紀後半~8世紀初頭とされる太寺廃寺の創建前の現地の姿をうかがわせる。不明だった明石駅家の所在地を推し量る上で重要な手がかりとなる」としている。
見つかった遺物は、10月30日から市立文化博物館で開催予定の「発掘された明石の歴史展-明石の古道と駅・宿」に出品される。
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明石市太寺地区は、同市から神戸市西区、垂水区にまたがる旧明石郡で最古の寺院「太寺廃寺」があったことで知られるが、これまでの発掘調査では寺域の外でも遺物や遺構が見つかっている。
市は1990年以来、太寺廃寺の寺域の内外で発掘調査を重ねてきた。
播州信用金庫明石支店(明石市太寺2)の敷地では、6世紀半ば(古墳時代後期)の円筒埴輪(はにわ)の一部が出土した。この地の小字名は「大塚」で、全国的に古墳がある地域でみられる地名であるため、周辺に古墳があった可能性が高いという。
また、太寺廃寺の後身である高家寺の北約30メートルにあるマンション敷地(同市太寺2)でも、寺の建立時に仏具を鋳造した工房跡とみられる遺構が見つかった。
稲原昭嘉・文化財担当課長は「有力者が建造するものが、古墳から寺院へと時代とともに移り変わったプロセスが太寺地区では見て取れる」と話している。(長尾亮太)