行基の供養堂、なぜ円形 ストゥーパ、多宝塔、天壇?:朝日新聞デジタル より
行基の供養堂、なぜ円形 ストゥーパ、多宝塔、天壇?
渡義人、編集委員・中村俊介
2021/5/20 19:30
国内外の円形建物
円形建物跡などが見つかった発掘現場=元興寺文化財研究所提供
円形建物跡が見つかった発掘現場。白線が示すのは柱穴や石材とみられる基壇の抜き取り跡=元興寺文化財研究所提供
古代建築の常識を覆す、方形の回廊と塀に囲まれた円形の建物。東大寺を真東に望む菅原遺跡(奈良市)で、類例のない不思議な構造物が見つかった。数々の社会活動で知られる奈良時代の高僧、行基の供養堂である可能性が高いという。が、この特異な構造の意味は? 研究者は一様に首をひねる。
好立地に行基の影
「こんなもの、これまで見たことがない」
「前例がない。驚きだ」
古代史や考古学、建築史など専門家の口をついて出るのは、そんな当惑ばかり。早くも議論百出の気配が漂い始めた。
供養堂で思い浮かぶのが法隆寺(奈良県斑鳩町)の夢殿(ゆめどの)や興福寺(奈良市)の北円堂、栄山寺(奈良県五條市)の八角円堂などだ。平面八角形の形式で、聖徳太子や藤原不比等ら時の権力者の供養施設とされている。
もし今回の遺構を供養堂とみなしてよいなら、出土瓦の時期などから有力候補として真っ先に挙げられるのが、かの行基。公権力から迫害されながらもやがて東大寺の大仏建立を託され、その業績で最高位の大僧正にまで上り詰めた人物である。菱田哲郎・京都府立大教授は「行基の追善のために建てられた可能性が高い。日本では珍しい円形を意識した建物で、インドなど遠い海外の文化がダイレクトに入ってきていた、奈良時代ならではの建物と言えるのではないか」という。
真東に東大寺を望むロケーションも「偶然ではないだろう」(東野治之・奈良大名誉教授)。大阪大谷大の狭川真一教授も「選びに選んだ場所」。滋賀県立大の佐藤亜聖教授も「東側の眺望をかなり意識している」という。
行基が創設した49院の想定地のひとつに隣接するのも、この説を補強する。1980年代、奈良大学の発掘調査で奈良時代中期の建物基壇が確認されており、彼ゆかりの「長岡院」の候補地とされていた。
坂井秀弥・大阪府文化財センター理事長は「行基に関係する具体的な考古資料は少ない。伝説的な彼の人物像が見えてきた」と期待する。
謎めく円形構造
もともと八角形の構造物は、限りなく円形を指向しているともいう。ではなぜ夢殿や北円堂は八角で、菅原遺跡に限って円形構造をあえて採用したのか。
「多宝塔の原型ではないでしょうか」。奈良文化財研究所の箱崎和久・都城発掘調査部長は、そう考えた。
多宝塔とは方形建物の上に円形の建物を重ねる形式で、根来寺(ねごろじ)(和歌山県岩出市)や石山寺(いしやまでら)(大津市)のもの、高野山の根本大塔(こんぽんだいとう)(和歌山県高野町)などがよく知られる。
その築造は空海に始まるとも言われ、平安後期から鎌倉時代にかけて普及した。なめらかな円弧の採用には木造建築ゆえの技術的な難しさも指摘されてきたが、もし今回の発見で多宝塔の出現が奈良期までさかのぼれば、従来の常識は大きく変わりそうだ。
一方、「インドのストゥーパのような、柵を巡らす半球状の墳墓ではないか」とみるのが山岸常人・京都大名誉教授。ストゥーパは釈迦など聖人の遺骨・遺品を納めた土まんじゅう形のモニュメントで、紀元前3世紀にアショカ王が手がけたサーンチーのストゥーパは有名だ。仏教の伝播(でんぱ)とともに西域から中国、日本へと伝わり、五重塔や三重塔になったとされる。「卒塔婆(そとうば)」はその音訳だ。
当時、はるかインドの直接的な影響が極東の島国まで及んでいたのか、議論は分かれるところ。ただ、大仏開眼会で導師の大役を務めた天竺(てんじく)僧の菩提僊那(ぼだいせんな)らも来日しているし、東南アジアにみられるインド的な土塔に行基やその弟子が関心を寄せていた、との指摘もある。
国際交流の産物か
それをにおわせるかのような日本風のストゥーパが現存する。
行基生誕の地、堺市の国史跡「土塔」だ。平面方形のピラミッド状で、一辺53メートル、高さ8メートル余り。行基が築き、発掘調査を通して13層にわたって瓦がふかれていたことが判明している。はたして土塔と菅原遺跡の円形遺構は結びつくのだろうか。
奈良時代には海外文化が流入し、正倉院宝物に代表されるコスモポリタンな文化・芸術が花開く。遣唐使などを通じて国際交流も盛んだった。
ならば、「奈良時代には多様な仏塔の系統があったのかもしれない」と狭川さん。「そのなかから結果的に選択されたのが五重塔などだったのではないでしょうか」
一方で、中国の天壇(てんだん)と結びつける見方も。中国古来の「天円地方」の宇宙観にもとづいて皇帝が天を祭る祭壇で、明の永楽帝が造った北京の天壇は世界遺産にも登録されている。そんな中国思想の導入があったのかどうか賛否は割れそうだが、時代の性格を踏まえれば、あながち荒唐無稽とも言い切れない。
また、飛鳥時代の天皇陵に採用された八角墳の思想的背景についても、今回の発見を機に再考の動きが活発化するのではないか、との見方が出ている。
造営は官か民か
誰が建造したのか、も大きな謎を投げかける。
民衆に絶大な人気を誇った行基。栄原永遠男・大阪市立大名誉教授は行基の取り巻きグループに思いをめぐらせ、「行基の没後、史料から消えていく行基集団が関与したのかどうか、興味がある」という。
大阪府立近つ飛鳥博物館の舘野和己館長は、49院が道場のような小規模な建物だとすれば、菅原遺跡の円形遺構は「実にしっかりした建物」との印象だ。「天皇や国がかかわっていたのかもしれない。大仏造立に貢献した行基への聖武天皇の思いは深かったのだろうか」と思いをはせた。(渡義人、編集委員・中村俊介)