伊丹台地における行基の開発と 四天王寺・太子信仰 テキスト起こし

伊丹市文化財保存協会 会報「絲海」第44号(令和元年6月28日発行)よりテキストに起こしました。

伊丹台地における行基の開発と
四天王寺・太子信仰

山口哲史

はじめに

 かつて摂津国河辺郡に属した現在の伊丹市域・宝塚市域、特に、昆陽池より北の伊丹台地北部には、太子信仰が多く残されている。容住寺にある駒繋ぎの松や太子腰掛石などは、それを示す好例といえよう。その一方で、昆陽池が行基によって築造された昆陽上池を前身とすることから明らかなように、伊丹台地は行基との関わりが深い地域でもある。行基ゆかりの伊丹台地に太子信仰が残されているのはなぜであろうか。本稿では、古代四天王寺史研究の立場から、その背景に迫ってみたいと思う。

一、伊丹台地における行基の開発

 本章では、行基が伊丹台地において行った寺院建立や社会事業について概観する。安元元年(一一七五)、泉高父が編纂した行基に関する基本史料である『行基年譜』の「年代記」部分には、行基の建立にかかる行基四十九院が年代順に列記されている。また、同書所引の「天平十三年記」には、行基による交通・灌漑施設を橋・直道・池・溝・樋・船息・堀川・布施屋の順に掲載している。まず、これらによって行基の事業を確認しておきたい。
【史料1】『行基年譜』行年六四歳条(1)

 嶋(崑) 陽施院 三月廿日に起(た)つ
  摂津国河辺郡山本村にあり

 本史料から天平三年(七三一)三月二〇日、河辺郡山本村に崑陽施院を建立したことが知られる。 また、「天平十三年記」には、次の諸施設が伊丹台地上に築造されたことがみえる。

 池五か所…河辺郡山本里に所在
  崑陽上池・同下池・院前池・中布施尾池・長江池
 溝二か所…河辺郡山本里に所在
  崑陽上池構・同下池構
 布施屋一か所…河辺郡崑陽里に所在
  崑陽布施屋

 これら諸施設のうち、崑陽上池が現在の昆陽池、崑陽上池溝が天神川、崑陽下池構が天王寺川、崑陽布施屋が昆陽寺にあたると考えられており、崑陽下池は慶長一三年(一六〇八)に消失して現存しないが、伊丹市池尻付近に推定されている。院前池や中布施尾池の所在地は明らかになっていない。なお、長江池は、これと対をなす長江池溝が「天平十三年記」で摂津国西城郡(西成郡、以下同じ)にあったとされ、中世の長江庄が西成郡の神崎川東端の江口付近に想定されることから、河辺郡ではなく西成郡にあったと考えられている(2)。
 以上、『行基年譜』の記事を検討すると、行基は、天平三年に崑陽施院を建立した後、同一三年(七四一)までに、長江池を除く池四か所、溝二か所、布施屋一か所を伊丹台地上に築造したことが知られる。本稿では、現在の天神川と天王寺川に比定される崑陽上池構と崑陽下池溝に特に注目したい(3)。
 次に、『行基年譜』にみえない行基の事業として、惸独田(けいどくでん)の開発が挙げられる。
【史料2】『日本後紀』弘仁三年 (八一二) 八月癸丑(二八日)条 (4)

 癸丑。勅すらく、摂津国にある惸独田一百五十町は、宜しく国司をして耕種せしむベし。獲るところの苗子は、年ごとに官に申して、処分せらるるを待ち、しかる後にこれを用いよ。惸独田は、故大僧正行基法師、孤独を矜(あわ)れまんがために置く所なり。

 本史料では、行基が孤独者を救済するために置いた摂津国の惸独田一五〇町への耕種や獲稲の使用など、その経営方法が定められている。この惸独田は、保安元年(一一二O)頃に作成された「摂津国租帳」によれば、河辺郡に一二六町五段七〇歩、武庫郡に二三町六段一七九歩あり、吉川真司氏は、河辺北条と武庫東条の境界付近、すなわち、伊丹台地南部の昆陽寺を中心とした崑陽上池・下池の灌漑エリアにその所在地を推定している (5)。
 これら伊丹台地における行基の開発事業は、天平二年(七三〇)に始まる摂津国における事業と一環のものであった。同年、行基はそれまで活動の拠点としていた河内国から摂津国に進出して西城郡に善源院・善源尼院、嶋下郡に高瀬橋院・高瀬橋尼院、河辺郡に楊津院、兎原郡に船息院・船息尼院を建立し、比売嶋堀川・白驚嶋堀川 (以上、西城郡)・高瀬大橋 (嶋下郡)・大輪田船息(兎原郡)などの交通施設を設けた。折しも聖武天皇による後期難波宮造営事業が進められている時期であり、摂津国における行基の事業は、これに協力したものであると評価さ
れている(6)。
 一方、伊丹台地に限れば、崑陽上池溝・下池溝から崑陽上池・下池に導水して台地南部の灌概に供し、これによって台地南部の耕地開発を進めたことに、行基の事業の意義があるといわれている。先述したように、惸独田がこの地域に推定されることもあって、近年、有力視されており、首肯すべき見解であろう。しかし、私は、行基の事業が台地北部に果たした役割も同時に見逃すべきではないと考えている。

二、伊丹台地に残る太子信仰

 はじめにでも触れたように、伊丹台地上には、太子信仰が多く残されている。確かに、伊丹台地のことを述べた文献史料をひも解くと、近世史料を中心に太子信仰に関する記載が散見される。以下、行論に関係するものの中からいくつか紹介し、それをもとに伊丹台地における太子信仰の特徴について考えてみたい(7)。
【史料3】「寛永四年縁起」

夫当寺は人王三十四代推古天王之御宇に聖徳太子開基之地なり、有時太子此所を通り給ふに大木の柳一本生茂り、其本に滑なる大石あり、柳枝嬋娟にして涼風梢を吟す、宛も此地は天人仙翁の遊園ならんと思ひ給ひ、駒よりおりさせたまひ、彼石上に座し暫やすらひたまるところに、柳風音楽をしらふ、誠に妙なる仏法の霊地たり、我此所に容を住め置へしとて、一宇を建立有て、則容住寺と号し、末世の衆生為二世安楽、座像之十一面観世音幷太子十六歳之御影、各自彫刻有て当寺に安置したまひ、仏事勤行のために貞祥といふ沙門を当寺におかせ給ふなり

 「寛永四年縁起」は、伊丹市荒牧にある容住寺の縁起で、末尾に寛永四年(一六二七)の年紀を持つが、仙柳山容住寺の号が定められた元禄五年(一六九二)頃に作成されたと推定されている(8)。【史料3】は、その冒頭に引かれた開基伝承である。これによると、聖徳太子が駒から降りて休息した地に容(かたち)を住(とど)め置きたいと建立したのが、容住寺であるという。
 「寛永四年縁起」には、もう一つ聖徳太子の馬に関わる伝承が載せられている。それは、寺の西南にある「馬田」の地名説話で、聖徳太子が傍らに牽き置いた馬によって草原が穿ち起こされてできた田にちなむとされる。
 また、寺の南には、聖徳太子がこの地に来て初めて開発したという「王子田」があった。「新蒔」(=「荒牧」)地名の由来とも関わる伝承である「仙柳山容住寺旧記写」では、「字戸尻」にあったとし、「寛永四年縁起」の後に作成された「無年紀縁起」では、「官稲一千束、端午に真薦草毎年天王寺へ供納ありしなり」という伝承を付け加えている。
 さらに、容住寺の縁起は、寺の東西を流れる川にも聖徳太子との関わりを主張している。例えば、寺の西の川を天王寺川というのは、聖徳太子が四天王寺からたびたび容住寺に往還した際に用いた川筋であるからと「寛永四年縁起」は述べる。元禄一四年(一七〇一)に完成した『摂陽群談』では、四天王寺の建立後、聖徳太子が残った良材を中山の麓に運送する際に用いたことに由来するとしており、近世において、天王寺川の名は四天王寺との関係で説明されていたことがわかる。
 一方、寺の東の川については、「無年紀縁起」で初めて言及されている。それによると、「当寺より東に川あり、太子此所へ諸人を集め三帰五戒を授けたまみ処なり、依茲(ここによりて)其所を今に戒の川原といひ伝へ、……」とあり、寺の東の川は、戒の川であった。『伊丹古絵図集成』所収の近世絵図によれば、「明暦三年荻野村絵図」(五三号絵図) に「かいのかわら」とみえるのを初見に、以後、三点の絵図に「かいの川(筋)」・「貝之川筋」として確認される河川名である。「宝暦六年鴻池村・新田中野村付近水利絵図」(八○号絵図)などから、瑞ヶ池・昆陽池より北の天神川上流部を指す古名であることがわかる。天神川という一見、太子信仰とは無関係のような名を持つ川の流域にも太子信仰が残っていたことには、注意される。なお、本絵図などにおいて、瑞ヶ池・昆陽池付近の蛇行部とその西の天神川下流部が玉田川と呼ばれていたことも、併せて指摘しておきたい。
 ここまで近世に作成された容住寺の縁起から太子信仰に関わる伝承をやや詳しく紹介してきた。次に、宝塚市安倉に所在する大蓮寺における事例をみておこう。
 大蓮寺には、境内に聖徳太子堂が建てられ(『元禄五年安倉村寺社改帳』「寺社付込帳」)、この堂に安置したとみられる聖徳太子自作の「御影」や、聖徳太子が『法華経』・金鶏を納めたと伝えられる塚の存在が知られる(元禄九年(一六九六)「大蓮寺由緒書」)。これによって、元禄年間に大蓮寺が聖徳太子との関係を主張していたことを確かめることができる。この大蓮寺においても、聖徳太子の馬に関わる伝承が残されている。年不詳の「大蓮寺縁起」によると、大蓮寺は崇峻天皇に傷害の相をみた聖徳太子が黒駒で諸国を巡行して創建したとされ、黒駒の鞍を休めたことから「安鞍」(=「安倉」)の地名が起こったというのである。
 以上、伊丹台地において聖徳太子建立伝承を持つ容住寺・大蓮寺の寺院縁起および関係する近世史料の記載を取り上げてきた。これらから、伊丹台地において太子信仰が残されているのは、駒(黒駒)に乗ってこの地に来た聖徳太子が何らかの行為をしたとされる遺跡地であったことがわかる。そこで注目されるのが、平安時代初期から中期の聖徳太子伝において形成される聖徳太子甲斐黒駒伝承である。
 聖徳太子の馬が伝承化される起源は、平安時代初期に成立した聖徳太子伝の『上宮聖徳太子伝補闕記』にある。
【史料4】『上宮聖徳太子伝補闕記』、9)

(前略) 太子の馬のごとし。 その毛烏(くろ)く斑(まだら)なり。太子、これに馭するに、空を凌ぎ、雲を麒(ふ)み、よく四足を酵る。東のかた輔時岳(ふじのおか)に登り、三日にして還る。北のかた高志の州に遊び、二日にして還る。太子の臨み看んと欲するの地は、この駕し奉ること三・四・五・六日にして、詣(いた)らざらん処なし。太子つねに命じて日く、「吾、意なる馬を得たり。甚だ善し甚だ善し」と。もし錯(あやま)ち踳(たが)うことあらば、終日喫(くら)わず。悔過(はか)あるに似たり。太子、「喫え」と宣ぶれば、敢えてすなわち草を喫い、水を飲む。辛巳の年十二月廿二日、斃(たお)れぬ。太子、これを愴(かな)しみ、墓を造り、墓に葬らしむ。今の中宮寺の南なる長大なる墓これなり。

 本史料には、次のようなことが記されている。聖徳太子は空を飛ぶことのできる烏斑の馬を所有しており、東は輔時岳(富士山)に登って三日間で帰り、北は高志之州 (越前・戦中・戦後)に行って二日間で帰った。臨み見たいと思う地には、どこへでも三〜六日で行くので、つねに聖徳太子は善馬を得たと喜んでいた。その馬は、もし、失敗すれば、悔い改めるかのように一日中飲食せず、聖徳太子に許されてはじめて草を食み、水を飲んだという。後にこの馬が死ぬと、聖徳太子は悲しんで、墓を造って葬った。中宮寺の南にある長大な墓が、それである。聖徳太子と飛行能力のある黒駒との「君臣関係」がみ取れる伝承である。平安時代中期の『聖徳太子伝暦』になると、この伝承にさらに脚色が加えられることになる。まず、本文をみてみよう。
【史料5】『聖徳太子伝暦』推古天皇六年条

夏四月。太子、左右に命じて日く、「善き馬を求めよ」と。幷(あわ)せて諸国に符して貢がしむ。甲斐国、一烏き駒の脚白きものを貢ぐ。数百疋の中より太子、この馬を指して日く、「これ神馬なり」と。余は皆還さる。舎人調使麻呂(つきのおみまろ)をして、これに飼養を加えしむ。秋九月。試みにこの馬に馹(の)り、雲に浮かびて東去す。侍従仰ぎ観るに、麻呂独り御馬の右にありて、直(ただ)に雲中に入る。衆人相驚く。三日の後、轡を廻らして帰り来る。左右に語りて日く、「吾、この馬に騎るに、雲を躡(ふ)み、霧を凌ぎ、直に附神岳(ふじのおか)の上に至る。転じて信濃に至る。飛ぶこと雷震のごとし。三越を経竟(おわ)んぬ。今、帰り来るを得。麻呂、汝、疲るるを忘れ、吾に随えり。寔(まこと)に忠士
なり」と。麻呂、啓して曰く、「意は空を履まざるも、両脚はなお歩きて陸地を蹈(ふ)むがごとし。ただ諸山を着るに、脚の下にあり」と。

 『上宮聖徳太子伝補闕記』からの変更点を中心に内容を要約する。推古天皇六年夏四月、聖徳太子が臣下や諸国に善馬を求めたところ、甲斐国が脚の白い烏駒を一頭献上してきた。聖徳太子は数百頭の中からこの馬を指して神馬だと言い、他はすべて返させ、舎人の調使麻呂にこの黒駒を飼育させた。秋九月、聖徳太子がこの黒駒に乗って巡遊した際には、調使麻呂が疲れるのも忘れ、これに随行したため、聖徳太子はその忠士ぶりを称えている。
 本史料にみえる新たな要素は、①黒駒が甲斐国から献上されたとする点、②調使麻呂の聖徳太子に対する忠誠が強調されている点の二点である。すなわち、聖徳太子と調使麻呂との「君臣関係」に読み替えられており、甲斐黒駒は、それを引き立てる道具立てと化している。ただし、聖徳太子が黒駒に乗って諸国をめぐるという筋書きは共通している。
 以上を要するに、伊丹台地における太子信仰は、平安時代に形作られた聖徳太子甲斐黒駒伝承に基づいて創作されたことが明らかである。すなわち、太子信仰の形成過程からいえば、平安時代を遡るものではなく(10)、近世に入って容住寺や大蓮寺の縁起が作成された際に、その中に取り込まれたものと考えられる。換言すれば、当時、伊丹台地の人々は、そうした太子信仰に関する知識や情報を知っていたことになる。近世の伊丹台地における知識・情報のネットワークや集積を考えるうえでも興味深い事例といえよう。

三、太子信仰の背景と四天王寺

 前章では、近世の寺院史料から伊丹台地に残る太子信仰を紹介し、それが平安時代の聖徳太子伝にみえる聖徳太子甲斐黒駒伝承を踏まえて創り出されたものであることを述べた。それでは、聖徳太子は、なぜ伝承上で伊丹台地上に来たことになっているのであろうか。次の史料を参照すると、その理由が明らかになるように思われる。
【史料6】「摂津国租帳」一国集計部分・河辺郡条(1)

(前略)

四天王寺荒符(薪ヵ)玖佰弐拾町玖段弐伯捌拾漆歩
〔同寺功久良地弐拾町ヵ〕
[          ]
同寺丹波田拾壱町壱段陸拾陸歩

(中略)
河辺郡

合仟佰(伍説)陸拾町陸段佰参漆(拾説)歩
 不輸祖(租)田陸伯捌拾弐拾玖段参佰伍歩

(中略)

四天王寺荒蒔(マキ)地子弐拾(町説)玖段弐佰漆歩
同寺功久良地弐拾町
同寺丹波田開田拾壱町壱段漆拾陸歩

(後略)

 本史料は、先に行基開発の惸独田に関連して言及した「摂津国租帳」の一節である。これによって、四天王寺田三筆が摂津国河辺郡にあったことが確認できる。この「摂津国租帳」は、摂津国の田租・地子を書き上げた帳簿で、九世紀後葉に原形ができ、一〇世紀中葉に追補された後、それが保安元年頃まで引き写され続けた史料と評価されている(12)。よって、本史料に
みえる四天王寺田の情報も、九世紀後葉段階、あるいは一〇世紀中葉段階のものということになる。
さて、本史料にみえる四天王寺田三筆は、次の通りである。

荒蒔地子
 二〇町九段あまり(約二五ha)
 功久良地(阿久良地子の誤写)
 二〇町(約二四ha)
丹波田開田
 一一町一段あまり(約一三ha)

 これら四天王寺田三筆の所在地とその来歴に関する具体的な考証は、別稿に譲ることとし、ここでは、結論のみ示しておこう。
 荒蒔地子は、伊丹市荒牧にあった輸地子田(不輸租田)である。天王寺川、すなわち、崑陽下池溝流域の容住寺周辺に推定される。神護景雲三・四年(七六九・七七〇)に施入された摂津国乗田の一部を起源とすると考えられ、文明四年(一四七二)の『天王寺執行政所引付』(13)にみえる中世荘園「荒蒔庄」として継承される。
 阿久良地子は、宝塚市安倉にあった輸地子田(不輸租田)である。大蓮寺周辺に推定され、先の荒蒔地子と同様、天王寺川、すなわち、崑陽下池溝流域にあたる。承和年間から貞観一三年(八七一)にかけて親子内親王(仁明天皇皇女)、太皇太后藤原順子 (仁明天皇女御)の所領であった河辺郡庄地の一部が、貞観一三年以降、四天王寺に施入されたことによって成立したとみられる。『天王寺執行政所引付』に「阿久良庄」としてみえ、中世荘園として継承されたことが確認できる。
 荒蒔地子・阿久良地子がいずれも昆陽池より北の河辺北条の条里が施行された範囲にあったことは、現存する大字地名との関係からして明白であろう。
 一方、丹波田開田は、伊丹市鴻池に所在した、荒蒔地子以後、四天王寺が新たに獲得・開墾した寺院墾田と考えられる。寺院墾田は、本来、輸租田であったので、租帳に掲載されるまでに不輸租田化されたのであろう。その所在地は、近世に玉田川と呼ばれた天神川下流部、つまり、崑陽上池溝流域、具体的には、「玉田」系小字の分布と河辺北条の条里地割との関係から、伊丹スポーツセンター付近に推定される。しかし、先述した荒蒔地子や阿久良地子のように、中世荘園として継承された形跡はない。高野山安養院領で昆陽寺が管領した昆陽寺庄の成立する蟻倉時代に(14)、丹波田開田がその庄域に包摂されることになり、退転したのではないだろうか。「文化三年昆陽池付近絵図」(『伊丹古絵図集成』四六号絵図)によれば、密教の請雨儀礼に現れる善女龍王の祠が玉田川(天神川)右岸、昆陽大池の北西畔に確認される。本絵図には、その東の行波明神とともに「大池守護神」と記されており、昆陽池の守護神に性格を変えているが(15)、この地域がかつて真言宗の影響下にあったことを物語っている。

おわりに

 伊丹台地、とりわけ天王寺川・天神川流域に太子信仰が残されているのは、奈良時代末期から平安時代にかけて、四天王寺田である荒蒔地子・阿久良地子・丹波田開田が順次、形成され、それらが鎌倉時代、または室町時代まで寺領として存続したことによると考えられる。そうした地域の歴史を踏まえ、近世に容住寺や大蓮寺がその縁起を作成する際に、聖徳太子甲斐黒駒
伝承を参照して、太子信仰にまつわる伝承を創出したのであろう。
 本稿では、特に太子信仰に注目したが、伊丹台地の地域史を信仰面から考える際には、その重層性にも注意する必要があることも強調しておきたい。行基信仰はもちろんのこと、西国街道に沿って立地する腎岡天満宮や東・西天神社からは天神信仰、本稿でも言及した善女龍王祠からは密教との関わりを窺うことができ、行波明神祠の背景には、行基鮒の伝承にみられる有馬の温泉薬師と行基の邂逅譚がある。つまり、薬師信仰である。
 これら諸信仰と行基信仰が密接に結びつきながら、相互に重なり合って伊丹台地の地域史を形作っていることに関心は尽きない。こうした地域性は、この地域が古代以来、有馬古道、古代山陽道(西国街道)をはじめとした複数の交通路の交差する、まさに「文化の交差点」とも呼ぶべき土地柄であったことを示している。また、本稿で取り上げた四天王寺領のように、寺社領などの支配関係から明らかになることもあろう。本稿が伊丹台地の地域史をさらに解明する一助になれば、幸いである。

(1)原漢文。後掲の「天平十三年記」も併せて、鈴木慎二「行基年譜」(井上弦編『行基事典』、国書刊行会、一九九七年)による。
(2) 小山靖憲「椋橋荘と承久の乱」(『市史研究とよなか』一、一九九一年)、西本昌弘 「「亀陽寺鐘銘」の基礎的検討」(『地域研究いたみ』四七、二〇一八年)。
(3) 坂井秀弥「『行基年譜』にみえる摂津国河辺郡山本里の池と溝について―古代における伊丹台地の開発―」(『続日本紀研究』二〇四、一九七九年)、同「行基による摂津伊丹台地の開発—昆陽二溝再論―」(同『古代地域社会の考古学』、同成社、二〇〇八年。初出一九九八年)。
(4)原漢文。新訂増補国史大系『日本後紀』による。
(5) 吉川真司『天皇の歴史。 聖武天皇と仏都平城京』(講談社、二〇一一年)。
(6) 薗田香融 「吹田地方における行基の活動」(『吹田市史』第一巻、一九九〇年)。
(7) 「寛永四年縁起」・「無年紀縁起」は、大国正美「近世前期の容住寺中興と縁起書の成立」(『地域研究いたみ』四一、二〇一二年)、「仙柳山容住寺旧記写」は、大江篤「寺院と行事」(『荒牧郷土史』、伊丹市立博物館、一九九五年)、『元禄五年安倉村寺社改帳』は、『宝塚市史』第五巻(一九七八年)、「大蓮寺由緒書」は、『浄土宗寺院由緒書』『増上寺史料集』五)、「大蓮寺縁起」は、川端道春『宝塚の風土記民話と伝説・地名のおこり』(川瀬書店、一九七七年)による。
(8) 大国氏前掲註 (7)論文。
(9)後掲の【史料51ともに原漢文。大日本仏教全書『聖徳太子伝叢書』による。
(10) 「大蓮寺縁起」は「是れ則ち聖徳太子、救世菩薩の霊験掲起の処なり」という一文で結ばれる。『聖徳太子伝暦』で狩猟される聖徳太子救世観音化身説に基づく言説であり、この点も、伊丹台地の太子信仰が平安時代を遡らないとする見方を補強しよう。
(11) 『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集中右記』、二〇三・二一九号文書による。
(12)吉川真司「院宮王臣家」(同編『日本の時代5 平安京』、吉川弘文館、二〇〇二年)。
(13) 『四天王寺古文書』第一巻。
(14) 黒田俊雄 「南北朝・室町時代の伊丹地方」(『伊丹市史』第一巻、一九七一年)。
(15) 『昆陽組邑鑑』昆陽村の項にも、「善女龍王」・「行波大明神」を挙げて「右両祠ハ行基時代昆陽大池開発之砌守護神として勧請仕候由申伝也、……宮遷宮等之儀は御領分寺本村昆陽寺寺中宝持院相勤申候」と記されている。

(関西大学等非常勤講師)


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