行基集団の活動のリンクとか

関西大学学術リポジトリ: 行基と知識集団の考古学的研究(PDF 2012年)
『第3項摂津の開発
崐陽池(図15・16)
摂津での行基の開発の痕跡として残るのは、「崐陽上池」(兵庫県伊丹市)があり、現在も残る昆陽池がそれに該当する。『行基年譜』には、「天平十三年記」に「崐陽上池 同下池 院前池 中布施尾池、長江池 巳上並五所河邊郡山本里」とあり、また、溝の項には、「昆陽上溝」「同下池溝」も築かれており、この周辺に集中して池や溝を築いたことがわかる。今述べたように、「崐陽上池」は、現在の昆陽池が該当し、「下池」はかつて「上池」の西側に存在した下池がそれに該当するようである。昆陽池は、現在、一部埋め立てられており規模が縮小しているものの27.8haを誇り、江戸時代には、昆陽・池尻・寺本の3ヶ村に水を供給していた。一方の下池は、池尻・山田・野間・友行・時友の5ヶ村に水を供給していたが、1608(慶長13)年に埋め立てられた。また、「崐陽上溝」「下池溝」は、天神川と天王寺川に当てる考えがある【坂井2008]。しかし、この論については、『行基年譜』にみえる「崐陽上溝長一千二百丈、広六尺、深四尺」「同下池溝長一千二百丈、広六尺、深六尺」より規模が大きいとの理由で、天神川と天王寺川にはあたらないとの考え方もある[吉田1987]。「上池」「下池」とも「昆陽池陥没帯」と称される谷地形を利用して築造されている。両池とも発掘調査が実施されていないので、古代の様相は不明。現在、昆陽池には、北側から天神川、天王寺川が流れ込んで水源となっているが、坂井説によれば、これら両川は「上溝」「下溝」にあたるという。正確には、これら2河川の「起源となった溝」であるという。これら2溝に比定できる遺構が、宝塚市の山本垣内遺跡で発見された[兵庫県教委1998](図16)。溝SD04としたものがそれに該当し、最大幅11m、深さ1.8mを測る大溝である。構内からは、奈良時代の土器が出土している。これが人工的に掘削された大溝で、行基が築造した「崐陽上溝」にあたり、「崐陽上池」へと導水するための溝と考えられているものである。また、連接して掘立柱建物も建設されており、この溝を管理するための施設の可能性も示唆されている。この調査地が山本里に位置することや、昆陽池との位置関係、時代を考慮すると、報告あるいは坂井氏の考察通り「上溝」「下溝」の可能性は高いと考える。
これら一連の池、溝の築造は、伊丹台地の開発を目指したものであることは疑いない。さらに、行基は、『行基年譜』によると、741(天平13)年に泉橋院にて聖武天皇と会談し、猪名野の地に「給孤独園」とよばれる身寄りの無い人の収容施設を作ることを許可される。この運営にあたっては、樽独田150町の収穫を充てたと考えられる。このためにも伊丹台地の開発は必須条件であった。しかし、伊丹台地は、丘陵上で溜池を築く必要があり、築かれたのが現在の昆陽池にあたる「崐陽上池」をはじめとする溜池群で、それに伴い必要となる山手からの導水施設として築造されたのが、「上溝」「下溝」であり、宝塚市・山本垣内遺跡で発見された大溝が、この「上溝」の一部である。これらの両溝は、現在の天神川と天王寺川にあたると考えられるのである。このような行基の一連の地溝開発により伊丹台地での生産体制が確立されたといってよい。』

NAGOYA Repository: 古代寺院と行基集団 -和泉地域における奈良時代寺院の動向と「行基四十九院」-(PDF 2010年)より
『和泉地域において既存寺院の修造が活発化したと考えられる 720年代~ 730年代は、まだ律令国家と行基との関係がさほど好転している時期とはいえず、行基の活動への報償を国家が積極的に与えるということも考えにくいのではないだろうか。
また、行基が和泉地域の寺院の修造に積極的にかかわった可能性も、むしろ薄いと筆者は考える。大野寺の文字瓦をみると、百済公や土師連をはじめ、信太寺の造営氏族である信太首、坂本寺の造営氏族である坂本臣、他にも大鳥連や日根連など、和泉各地の有力氏族が大野寺の造営に参画していたことは疑いない。しかし、にもかかわらず、大野寺と同笵や同文の瓦が、これらの氏族寺院にはまったく使用されておらず、またこれら知識を示す人名文字瓦も、大野寺以外の諸寺ではまったく出土していない。このことはむしろ、大野寺の造営にもちいられた、行基集団の大きな労働力は、在地寺院の修造には向けられなかったことを想起させる。
さらに、これら奈良時代前半に修造された在地の郷名寺院が、いずれも「行基四十九院」の中に入っていないことは、行基に深く帰依し、その活動を積極的に援助していた和泉の在地氏族たちが、自らの経営する寺院を、行基集団に提供・寄進していないという事実を示すものといえよう。それは、行基集団の側からいえば、在地の有力氏族に対して、労働力など種々の援助をうけながら、布教の場としての寺院、それも既存の寺院の提供という、いちばん容易に要求できるであろうことを求めていないと考えることもできよう。
こういったことを考え合わせると、行基およびその集団の活動として、寺院の造営や修造、維持管理といった方面への意識の薄さが、むしろ導き出せるのではないだろうか。
考えてみれば、行基集団の事業は、あくまで池溝や港湾の開発や架橋、布施屋の設置など、直接民衆が潤う事業にその主眼が向けられている。在地有力者層の援助も、行基の宗教性よりむしろ、こういった実利的な活動への理解であった可能性もあろう。「行基四十九院」も、寺院としてそれ単独というよりむしろ、これら池溝や橋に隣接して設けられており、宗教施設というよりむしろ、諸施設の維持管理の役割が強かったようにも感じさせる。』



伊丹廃寺は昆陽施院では無さそうです。


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