5世紀の円筒埴輪か、大山古墳から発見 列状に並ぶ

5世紀の円筒埴輪か、大山古墳から発見 列状に並ぶ:朝日新聞デジタルより
5世紀の円筒埴輪か、大山古墳から発見 列状に並ぶ
加戸靖史2018年11月22日17時52分

 宮内庁と大阪府堺市は22日、国内最大の前方後円墳、大山(だいせん)古墳(伝仁徳〈にんとく〉天皇陵、全長486メートル)の堤で進めている共同発掘調査の現場を報道陣や国内16学会の代表者に公開した。列状に並んだ円筒埴輪(えんとうはにわ)と、こぶし大の石を並べた石敷きを確認。宮内庁は5世紀とされる築造時の遺構とみている。

 大山古墳は日本書紀で4世紀末に亡くなったとされる仁徳天皇の墓として、宮内庁が明治以降、立ち入りを厳しく規制してきた。

 今回の調査は将来の保全工事に向けた基礎情報の収集が目的だが、宮内庁が地元自治体と共同で発掘したのは初めて。大山古墳の内側の堤まで立ち入りを認めたのも極めて異例だ。

 現場は、墳丘を囲む三重の濠(ほり)のうち、墳丘に最も近い第1濠と2番目の第2濠に挟まれた第1堤。南側と東側の計9カ所でトレンチ(試掘溝、長さ7・5メートル~10・5メートル、幅2メートル)を掘った。

 その結果、第2濠に最も近いトレンチ3カ所の深さ20~40センチのところで、列状に並んだ直径35センチほどの円筒埴輪が各4、5本並んでいるのが確認された。

 現場では、ポリ袋(35センチ×40センチ)で40枚分ほどに相当する量の遺物が採取された。9割が円筒埴輪の破片で、朝顔形埴輪や、貴人の傘を模した蓋(きぬがさ)形埴輪の破片数点も含まれていた。江戸時代のものとみられる陶磁器片も見つかった。

 第1堤では1973年にも第2濠側で円筒埴輪1点が出土している。宮内庁は「第2濠側に円筒埴輪列があったことは確実」との見解を示した。

 一方、第1濠側に埴輪列は見当たらなかった。同庁の徳田誠志(まさし)・陵墓調査官は「もともと存在しなかったか、濠の水の浸食で失われたか、今回の調査ではなんとも言えない」と述べた。

 古墳の被葬者が誰かについては諸説あるが、古墳の築造時期や被葬者の絞り込みにつながるような遺物も見つかっていないという。

 埴輪列の周囲に石を敷き詰めたのは堤の上面を飾るためではないかとみられるが、大山古墳が属する百舌鳥(もず)古墳群ではほかに類例がないという。

 一般向けの現地公開の予定はない。調査に加わった堺市は「できるだけ早い時期に速報展や講演会を開きたい」としている。(加戸靖史)

見えない部分は意外と適当に
 普段は立ち入れない大山古墳(仁徳天皇陵)の敷地で取材した。古墳前方部向かいの特別拝所の脇の通路から、最も内側の第1堤へ。倒木が目立つのは、9月の台風21号の影響という。

 堤のトレンチでは、外側の濠に近い側の3カ所に、直径35センチほどの丸い円筒埴輪(はにわ)が4、5本並んでいるのがはっきりわかる。周囲には無数のこぶし大の石が敷かれていた。河原によくあるような、角が丸い石だ。

 宮内庁の調査担当者によると、もともとの地面に20センチ程度土を盛って埴輪を立てた後、さらに10センチほど土を盛って固定し、その上面に石を敷いたようだ。

 埴輪は今は割れているが、当時は高さ80センチほどあったらしい。横の埴輪と上辺をそろえるためか、土に埋まっている底部を打ち割って低くした痕跡がある埴輪もあった。「見えない部分は意外と適当にやっていたみたい」と担当者。

 第1堤は延長約2600メートルある。もしすべてに円筒埴輪を並べたとすると7千本超にのぼる計算だ。石も含め、どこかから運んできたとすれば、相当な労働力が必要だったはずだ。この古墳をつくった権力の強大さがうかがえた。

 トレンチの2カ所からは戦時中に米軍が投下した焼夷弾(直径8センチ、長さ38センチ)が見つかった。1945年7月の堺大空襲では、この古墳でも被害があったことが報告されている。

 樹木の間からは、前方後円墳の「くびれ」が美しく見えた。宮内庁の担当者は「(堤が)踏み荒らされる恐れもあるので」と一般公開に消極的な姿勢だったが、多くの人が見られる機会があれば、と思った。

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