「万世一系」じつは実力主義だった? 王朝交代の危機は

「万世一系」じつは実力主義だった? 王朝交代の危機は:朝日新聞デジタルより
「万世一系」じつは実力主義だった? 王朝交代の危機は
編集委員・宮代栄一2017年9月10日21時25分

福井市の足羽山にある継体天皇の像
 「万世一系」という言葉がある。天皇家の血筋が連綿と続いてきたことを示す文脈で使われる事が多い。

 実際、「日本書紀」などを読む限り、神武天皇や続く「欠史八代」などを除けば、古代から天皇家が、血縁に基づき王位や皇位を世襲で継承してきたことは疑いがないように見える。

 だが、国立歴史民俗博物館の仁藤敦史教授(日本古代史)は「6世紀以前の王位はむしろ、実力・能力主義で決められていたのでは」と考えている。

 それを示唆するのが「倭(わ)の五王」だ。中国の歴史書に出てくる、5世紀の日本列島を治めたとされる讃、珍、済、興、武の5人の王のことで、自ら甲冑(かっちゅう)を身につけ、山河を駆け巡って東西を平らげた――などと中国の皇帝あての文書に記したことで知られる。それぞれをどの天皇にあてるか意見が分かれるが、済は19代の允恭(いんぎょう)天皇、興は20代の安康天皇、武は21代の雄略天皇とする説が有力だ。

 「天皇は元々、自然神などを祭る祭祀(さいし)を司(つかさど)ることで特別な存在となっていくが、5世紀になると、軍事や外交などの実務に秀でていなければ務まらなくなる。そんな状況下では、親から子への世襲より、広い意味での血縁・婚姻関係の中で優れた能力を持った人物が王位に就いていた可能性が高い」と仁藤さん。

 仁藤さんによると、聖徳太子の伝記「上宮聖徳法王帝説」には、29代の「欽明以降の5代は、他人を雑(まじ)えず天下を治めた」との記述があり、「そのまま読めば、それ以前の天皇は血縁関係になかったということになる。6世紀以前は世襲第一ではなかったと思う」

 にもかかわらず、日本書紀などで天皇がすべて世襲であるように記されたのは、それらが編纂(へんさん)された8世紀に、中国から、男系での皇位世襲を重視する思想が入ってきていたからで、「それに従う形で歴史が改変された結果」とみる。

 一方、このような考え方には反論もある。

 たとえば、堺女子短期大学の水谷千秋教授(日本古代史)は「少なくとも5世紀頃からは、基本的に古事記や日本書紀の記述は信用できる」との立場だ。

 ただし、ここで問題になるのが、26代の継体天皇である。書紀などによると、25代の武烈天皇が506年に後継ぎを決めずに死去したため、15代の応神天皇から5代離れた男大迹王(おおどのおう)が越前(今の福井)から迎えられ、王位に就いたという。

 これに対して、古代史学者の水野祐氏が戦後に唱えたのが「三王朝交代説」だ。継体天皇は王位を奪い取った人物で、10代の崇神天皇や15代の応神天皇に始まる前代の王朝とは血がつながっていないと説いた。

 この水野説については、根拠とした「古事記」の真福寺本の書き入れの史料性に問題が指摘されたこともあり、現在、学界では有力視されていない。水谷さんも「5代離れた傍系の有力王族という解釈でいいのではないか」と話す。

 では、日本では、血筋以外の人物が王位に就く危機はなかったのだろうか。

 水谷さんが「古代で可能性が極めて高かった」と考えるのが、35代皇極天皇に仕えた蘇我入鹿(いるか)(?~645)と、46代孝謙天皇(48代称徳天皇)に重用された僧・道鏡(?~772)だ。「入鹿は皇位継承さえ左右した権力者であり、自らも政治の表に出ようとする傾向があった。乙巳(いっし)の変で暗殺されなかったら、将来的には天皇の位に就いていたのではないか」

 また道鏡については、「孝謙天皇は疫病や相次ぐ天災を自らに徳がないのが原因と憂え、その救いを仏教に求めた父の聖武天皇(45代)の影響を強く受けていた。僧である道鏡に国を委ねることで『天命』を更新し、仏教によって国を立て直していこうとした可能性が高い」と推測する。

 一方、仁藤さんは「日本では藤原氏なども基本的に王位を奪うのではなく『第一の臣下』のポジションを志向してきた」と話す。「天皇がすべてのセンターで他の貴族の貴種性もすべて天皇家に依拠している。このため、取って代わるという事が起きにくかった」

 歴史をひもとくと、天皇家の権威の源は元々、祭祀にあり、それを司ってきたからこそ、人々の尊敬を集め、血筋が続いてきたことがわかる。天皇陛下が私事として行っている「宮中祭祀」もその伝統を引き継いでいるといえるだろう。(編集委員・宮代栄一)

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