「道祖」だけで「佐倍乃加美(サヘノカミ・境の神)」だったのが道祖神(ドウソシン)になった だけではなかった

CiNii 論文 –  都市と道祖神信仰 (都市の地域特性の形成と展開過程–近世以降の流通と文化を中心に(共同研究)日本における都市生活史の研究)より
都市と道祖神信仰(PDF)

『文献を資料として考えると、境を遮る境界神はサエ(へ)ノカミ・ドウソジンに収敏する過程において、行路の神として境界を開く神の性格を習合し、夫婦神であることを契機として、性的な側面をも習合させることになった。』


道祖神考 – 関西学院大学リポジトリより
『以上のように見てくると、道祖神はわが国の固有信仰のように見えるけれども、道祖神信仰には、他にさまざまな異質な要素が混在していると思われる。第一、道祖神は、古来「さえのかみ」「くなどのかみ」「ふなどのかみ」「みちのかみ」「ちまたのかみ」「たむけのかみ」など称せられることが多く、道祖神と記されることはむしろ稀であった。「塞の神」「衛の神」というのは、部落の入り日の三又路に立って、人々に害を及ぼす魔物の侵入を防ぐのがその役であった。また「くなどの神」「ふなどの神」も、
・・・(引用割愛)・・・
とあるのを見てもわかるとおり、記紀・祝詞の成立した奈良時代前後の時点では、これも衢に立って魔物を追いかえす意味を持つものと考えられていたことは間違いないであろう。万葉集などに見える「たむけの神」は、行旅の安全を守る神のように考えられているけれども、これらも要するに、国や郡の境を守り、悪霊の侵入を防いでいる神であって、猛威をふるうさまざまな悪霊を追いかえすとなれば、「たむけの神」は当然さらにそれよりも強い霊力を持つ恐ろしい神と信じられていたはずである。従って、旅人たちはこれに幣を奉り、神に対する信仰の心を示して、その霊域に立ち入ることを許してほしいと願うというのが原義だったのであろうと思われる。』

続道祖神考 – 関西学院大学リポジトリ

日本の方池と韓国の方池(PDF 2001年10月) 奈良文化財研究所リポジトリ

弥勒寺(미륵사:ミルクサ) – だるまさんが転んだ

道祖神信仰の源流古代の道の祭祀と陽物形木製品から(PDF) 研究報告 収録論文 126集〜150集|国立歴史民俗博物館より
『(5)まとめ
 本格的都城が造営された七世紀後半、天皇の居所をはじめ、都城内を清浄に保ち、邪悪なものの侵入を防ぐために、京城の四隅の道上で道饗祭を実施した。
 その道饗祭の特異な祭祀形態として二つの特徴をあげることができる。
 一つはのちの『小野宮年中行事』に道饗祭事としてみえるように、陽物を表現した神像(陰部を表現した女性像と対の場合もあり)がチマタに立てられていたが、それは当時の人々には奇異なものと意識され、『今昔物語集』巻一三ー第三四においても「下劣ノ神形」と表現されるような呪術的要素の強い祭祀形態であった。こうした祭祀は、六世紀の百済の王京の入り口近くの道の縁に陽物形木製品を立てるという祭祀の形態を、七世紀後半の日本の都城祭祀に導入したことによると理解することができよう。
 もう一つは、道饗祭の祭料に牛・猪・鹿・熊という四つの動物皮が供えられている点である。延喜式にみえる宮城四隅疫神祭、障神祭なども含めて、すべて道に関わる祭祀、とくに疫病などの邪悪なものの都城への侵入を阻止する祭祀に限って四つの動物皮が供えられている点はきわめて特異である。』
『 かつては、七世紀半ば以降の都城祭祀として、宮そして京内に邪悪なものの侵入を防ぐ目的で陽物などを用いて厳粛に実施された道の祭祀は、一〇世紀以降においては、京や各地のチマタなどで人形の下半部に陽物や陰部を刻み記した男女二体の像を人々は「これを奇とす」(小野宮年中行事)、「下劣ノ神形」(『今昔物語集』)と評しているのである。
 そして、古代の都城と同様に村落に邪悪なものが侵入するのを防ぐ村の祭りとしての道祖神祭は、おそらく村の自治が本格的に確立される中世末から近世に入って村落内祭祀として確立されたのではないか。さらには村落における境界祭祀的要素に加えて、豊作祈願、縁結びの神、夫婦和合の神、安産の神、子宝の神そして地蔵信仰などが近世以降加味されていったのではないかと考えられる。それに伴い、祭りの場も村境から村の中心部のチマタに移っていったのではないだろうか。』

くらしの植物苑だより No.93|国立歴史民俗博物館
くらしの植物苑だより No.57|国立歴史民俗博物館


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