昆陽下池の痕跡を探る

慶長十年摂津国絵図を歩く | 聞きかじり西宮歴史散歩より

慶長10年(1605年)の絵図で新田中野の開発前になる。

「阿倉(安倉)村」から「南条村」「北条村」が分かれて書かれているが現在に比定できる場所が不明。
昆陽が「小屋」になっていて昆陽寺は「行基堂」なのも興味深い。

「バーチャル歴旅」~史料館架蔵史料の紹介~vol.19-2(その1) – アーカイブログ | 尼崎市立地域研究史料館より
『山田村をとおり、時友村へそそぐ用水路は、昆陽下池(近世初頭に昆陽池の西方にあったとされる池)からの用水。池尻・山田・野間(以上伊丹市)、友行、時友(以上尼崎市)の田畑を潤していました。』

大洲藩の飛地、摂津池尻村1 池尻に在住した神山市郎右衛門:大洲藩日記:So-netブログより
『池尻の村名の由来は、昆陽下池の閘門尻に位置するためとある(「川辺郡誌」)』

第十一章 地名が語る伊丹の歴史~それ以外の旧村地帯~より
『 それからもう一つ。西野村の区域にですね、「下ノ池入江」という注目すべき地名がありました。天神川の南です。そこは、現在、池尻三丁目という地名になっておりましてね、もうそんな「下ノ池入江」という古い地名はありません。
 しかし、そこにですね、慶長年間(一五九六~一六一五年)、あの関ケ原の戦いがあったころですが、そのころまで、そこに昆陽下ノ池という池があったといわれています。現在ある昆陽池は上池、つまり、昆陽上ノ池なんです。それに対する下ノ池、昆陽下ノ池が、そこにあったと。ですから、「下ノ池入江」という古い地名は、そこに下ノ池があったんだということを物語る、その場所をはっきりと特定する、貴重な地名だったんですね。ところが、残念なことに、もうその地名はありません。先ほど申しました、浅野孫左衛門を記念した孫左衛門池という大きな池も、すっかり埋め立てられてしまいましてね、いまは住宅団地に姿を変えております。』

NAGOYA Repository: 古代寺院と行基集団 -和泉地域における奈良時代寺院の動向と「行基四十九院」-(PDF)より
『和泉地域において既存寺院の修造が活発化したと考えられる 720年代~ 730年代は、まだ律令国家と行基との関係がさほど好転している時期とはいえず、行基の活動への報償を国家が積極的に与えるということも考えにくいのではないだろうか。
 また、行基が和泉地域の寺院の修造に積極的にかかわった可能性も、むしろ薄いと筆者は考える。大野寺の文字瓦をみると、百済公や土師連をはじめ、信太寺の造営氏族である信太首、坂本寺の造営氏族である坂本臣、他にも大鳥連や日根連など、和泉各地の有力氏族が大野寺の造営に参画していたことは疑いない。しかし、にもかかわらず、大野寺と同笵や同文の瓦が、これらの氏族寺院にはまったく使用されておらず、またこれら知識を示す人名文字瓦も、大野寺以外の諸寺ではまったく出土していない。このことはむしろ、大野寺の造営にもちいられた、行基集団の大きな労働力は、在地寺院の修造には向けられなかったことを想起させる。
 さらに、これら奈良時代前半に修造された在地の郷名寺院が、いずれも「行基四十九院」の中に入っていないことは、行基に深く帰依し、その活動を積極的に援助していた和泉の在地氏族たちが、自らの経営する寺院を、行基集団に提供・寄進していないという事実を示すものといえよう。それは、行基集団の側からいえば、在地の有力氏族に対して、労働力など種々の援助をうけながら、布教の場としての寺院、それも既存の寺院の提供という、いちばん容易に要求できるであろうことを求めていないと考えることもできよう。
 こういったことを考え合わせると、行基およびその集団の活動として、寺院の造営や修造、維持管理といった方面への意識の薄さが、むしろ導き出せるのではないだろうか。
 考えてみれば、行基集団の事業は、あくまで池溝や港湾の開発や架橋、布施屋の設置など、直接民衆が潤う事業にその主眼が向けられている。在地有力者層の援助も、行基の宗教性よりむしろ、こういった実利的な活動への理解であった可能性もあろう。「行基四十九院」も、寺院としてそれ単独というよりむしろ、これら池溝や橋に隣接して設けられており、宗教施設というよりむしろ、諸施設の維持管理の役割が強かったようにも感じさせる。』
伊丹廃寺は昆陽施院では無さそうです。


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