継体天皇について妄想してみた ー 古代妄想

継体天皇(袁本杼命)からみた倭国征服
継体天皇(古事記:袁本杼命(をほどのみこと)、日本書紀:男大迹王(をほどのおおきみ))は日本書紀では大伴金村、許勢男人、物部麁鹿火がヤマトの天皇の男系が途絶えたから遠い男系である越前国高向(福井県坂井市)を統治していた豪族を迎えて河内国樟葉宮(大阪府枚方市樟葉)で即位した(西暦507年)。
天皇堂 – 越前・若狭紀行より

『「日本書紀」(直木孝次郎ら、小学館)                
 男大迹天皇(おおどのすめらみこと、継体天皇)は主人王(ひこうしおう)の御子である。母は振媛(ふるひめ、或いは ふりひめ)と申しあげる。振媛は垂仁天皇の七世の御孫である。主人王(ひこうしおう)は振暖の容貌が端麗でたいそう美しいと聞いて、近江国の高島郡の三尾から使者を遣わし、越前の三国の坂中井(さかない、今の福井県坂井郡丸岡町)より妃としてお迎えして召し入れ、天皇をお生みになった。

ところが、男大迹王(おおどおう)が幼少の頃に父王(彦主人王)が亡くなられた。振暖は嘆いて、「私は今、遠く故郷を離れている。これではとても親に孝行を尽すことができません。私は高向(福井県坂井市丸岡町)に帰り我が子を育てたい」と言った。天皇は成人されて、人を愛し賢者を敬い、御心は広く豊かであられた。天皇が御年五十七歳の時、八年冬十二月八日に武烈天皇がおかくれになった。もともと男子も女子もなく、後嗣(あとつぎ)は絶えてしまうところだった。
 十二月二十一日に、大伴金村(おおとものかなむら)大連(おおむらじ)は諮(はか)って「今まさに、天皇の後嗣が絶えてしまった。天下の人々はどこに心をよせればよいのか。古くから今まで,禍はこういうところから起こっている。今、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の五世の孫の倭彦王(やまとひこおう)が、丹波国の桑田郡におられる。兵士を遣わして、みこしをお守りして倭彦王をお迎えし君主に立て奉りたいと思う」と言った。大臣・大連たちは一同皆がこれに従い計画どおりお迎え申することになった。さて倭彦王は、その軍兵を遠くから望み見て顔色を失い、山谷にかくれてしまい行方が分からなくなってしまった。

 そこで、元年春正月の一月四日に、大伴金村大連はまた諮って「男大迹王(おおどおう)は情け深く親孝行でいらっしゃる。天皇の位を継承なさるにふさわしい方である。なんとかして、鄭重にお勧め申して皇統を興隆させたい」と言った。物部麁鹿火(もののべのあらかい)大連(おおむらじ)・許勢男人(こせのおひと)大臣(おおおみ)たちはみな「御皇孫たちの中から熟慮すると、賢者は男大迹王ただ一人である」と言った。

 六日に臣・連らを遣わして節旗(しるし)を掲げ御輿(みこし)を準備して三国にお迎えに行った。兵備を整え粛然として往来の人を止め、にわかに到着した。その時、男大迹王は落ち着きはらって胡床(こしょう)に座っておられた。整然とした家来を従えて、すでに帝王の風格を漂わせられていた。節旗(しるし)を掲げた使者らは、これを見て尊敬の念で命をかけて忠誠を尽したいと願った。しかし、天皇は内心なおもお疑いを抱かれて直ぐにはお受けにならなかった。たまたまご存じであった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が、ひそかに使者をお送りして、大臣・大連たちが男大迹王を天皇としてお迎えしようとしている本意を詳しくご説明申しあげた。二、三日の後、出発なさることになり、嘆息して、「よかった、馬飼首よ。お前が使者を送って知らせてくれなかったならば、天下に笑われるところだった。世間の人が『貴賤にこだわるな。ただその心だけを重んぜよ』というのは荒籠(あらこ)のような者を言うのだろう」と仰せられ、即位されてからは荒籠を厚遇された。

 二十四日に天皇は樟葉の宮に到着された。

 二月四日、大伴金村大連は跪(ひざまず)いて天子の鏡・剣の璽符(みしるし)を奉って再拝した。男大迹天皇は辞退して「民を我が子のようにして国を治めることは重大な仕事である。私には天使としての才能がなくふさわしくない。どうか考え直して他に賢者を選んで欲しい。」と仰せられた。大伴大連(おおとものおおむらじ)は地に伏してかたくなにお願い申し上げた。男大迹天皇は西に向かって三度、南に向かって二度、辞譲なされた。大伴大連たちはみな、「私どもが考えますには、男大迹天皇こそ、民を我が子のように国をお治めになるのに、最適の方です。私どもは国家のための計画を決して軽々しくはいたしません。どうか私達の願いをお聞き入れご承諾ください」と申しあげた。男大迹天皇は、「大臣・大連・将軍・大夫・諸臣がみな私を推すのであれば断るわけにはいくまい」と仰せられ、璽符(みしるし)をお受けになった。

この日に天皇の位に即かれた。大伴金村大連を大連とし,許勢男人大臣(こせのおひと)を大臣とし、物部麁鹿火大連を大連としてそれぞれの位に任じられた。 .......』

迎えられたにもかかわらずどうしてヤマト(奈良県桜井市近辺)に宮を作らないで河内だったのだろう?
「大王(天皇)は内心なおも疑いを抱いて直ぐには受けなかった」からといってヤマトに入京(いわゆる「京」ではなかったとしても拠点としての京)するのに19年もかかったというのはおかしい。
京で祖先神の前で即位してこその大王であるはずだ。

継体天皇の宮の故地を訪ねるより
1117-40『日本書紀』の記述によって、継体朝の遷都の軌跡を追ってみよう。
●継体元年(507年)春2月4日、河内国交野郡の樟葉(くすは、現大阪府枚方市楠葉)で即位す
●継体5年(511年)冬10月、都を山背の筒城(つつき、山城国綴喜郡)に遷す
●継体12年(518年)春3月9日、都を山背の弟国(おとくに、山城国乙訓郡)に遷す
●継体20年(526年)秋9月13日、都を遷して大和の磐余の玉穂(いわれのたまほ、奈良県桜井市池之内の辺り)に置く』

日本書紀は8世紀に日本の天皇が神武天皇から万世一系であることを謳っているので継体天皇のこの行動のもっともらしい理由が必要だったからだろう。
これを継体天皇側から考えると実に合理的で腑に落ちることができる。

まず継体天皇の系譜なんて何の根拠もないだろう。日本書紀や古事記が編纂されるまで歴史は口述伝承だった。古墳時代も各地のクニを治めた豪族も前方後円墳を祭り王を称える伝承が語り継がれ、また声高に詠われていて、みんな神の子孫であったことだろう。

さてそんな感じで継体天皇について妄想してみよう。

(2016.12.25百済→新羅 2020.10新羅→韓半島)
韓半島系渡来人の秦氏の一族として近江で生まれて父親と自身も越前のクニを治めた王だった。当時の越前は北部九州、出雲、吉備、和泉や河内と並んで大陸との交易の盛んな先進地の一つだ。水稲の生産力も高いので強国であったはずだ。

継体天皇が生まれる前の倭は広開土王碑に記されていて確実なことは4世紀末から5世紀初めに百済と倭の連合軍と新羅と高句麗の同盟軍との戦いを繰り返していたということだ。

この時点で百済が滅亡したわけではないがこれらの戦乱によって百済から多くの難民が倭に渡来人として移住してきただろうことは考古学的にも明らかだ。また新羅や高句麗からも多くの難民が渡来人として移住してきたはずである。

かれらのうちで近江から越前に大陸の先端技術をもって移住した韓半島系渡来人によって築かれたクニを治めていた王が継体天皇であったのだ。
当初は日本海を伝って大陸と交易していたであろうが北部九州から瀬戸内海に沿って摂津を経由して山城まで来る方が安全な訳で河内の高句麗系渡来人の河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)と同盟して近江から山城に進出してきて宮を築いたのだろう。
継体天皇自身としては大陸との交易が重要であって、

「ヤマト王権?何それ?おいしいの?」

程度でしかなかったのではないだろうか。
そうでなければ河内からヤマトに進出するのに20年もかかる理由がない。

継体天皇以降の倭は旧ヤマト王権から韓半島系渡来人ヤマト王権となったと考えるのが妥当だ。

韓半島とは異なって倭ではそれまでクニのゆるい連合国家でその時代その時代で最強のクニの王が倭国の大王(おおきみ)としてヤマト王権として君臨していた。
そして越前のクニが勢力を拡大して継体天皇が各地のクニを征服してヤマト王権を乗っ取ったのだ。
九州にあった別のクニである磐井のクニを韓半島との交易の勢力争いとして磐井の乱で滅ぼしたと考えると合理的に理解できる。

(2020.10.02追記)
継体天皇軍と築紫磐井軍との戦い
継体天皇軍が奈良の旧ヤマト王権を滅ぼした後、旧ヤマト王権の残党であり任那や加羅と同盟していた築紫の磐井を制圧した戦いだった。
そう考えると加羅や任那が築紫からの支援がなくなった為に百済や新羅に滅ぼされて併合された流れが理解しやすい。
日本書紀には磐井が新羅と結託してとなっているが加羅や任那と九州との関係を考えると賄賂程度で命がけで反乱するのは不自然だ。

ちなみにこの時代の出来事をあげてみると
507年 継体天皇が樟葉宮をおく
513年 百済に任那4県を割譲
526年 継体天皇が大倭に遷都
527年 磐井の乱
540年 新羅が任那地方を併合
なっている。

倭国が内乱状態になっていたために韓半島の倭国のクニが百済と新羅に滅ぼされて併合されてしまったのだ。

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