寺の石碑、今城塚古墳の石棺の一部だった? 大阪・高槻

寺の石碑、継体天皇の石棺の一部だった? 大阪・高槻:朝日新聞デジタルより
寺の石碑、継体天皇の石棺の一部だった? 大阪・高槻
編集委員・今井邦彦2016年11月11日19時13分
 「真の継体(けいたい)天皇陵」とされる大阪府高槻市の今城塚(いましろづか)古墳(全長約190メートル、6世紀前半)の石棺の一部とみられる大きな石材が近くの寺跡で見つかった。市立今城塚古代歴史館が10日発表した。熊本産の石をくりぬいて作った家形石棺の側壁か底部とみられ、大王の強大な権力がうかがえる資料として注目されそうだ。

 「日本書紀」によると、継体天皇は528年に九州北部の首長・磐井(いわい)との内戦「磐井の乱」に勝利し、3年後に没した。宮内庁は茨木市の太田茶臼山(おおたちゃうすやま)古墳(5世紀中ごろ)を継体天皇陵に指定しているが、考古学者の多くは、年代が合致する今城塚古墳が継体天皇陵とみている。

 石材は熊本特有のピンク色の凝灰岩。長さ110センチ、幅66センチ、厚さ25センチの板状で重さ約250キロ。表面に朱とみられる赤い顔料がついていた。同じ石の破片は今城塚古墳からも出土し、歴史館は全長260センチ、重さ約7トンの石棺を復元しているが、破片は最大でも20センチ前後だった。

 60年ほど前まで近くの水路の橋として使われ、地元では古墳で出土したとの言い伝えがあったという。その後、近くの寺の石碑となったが、廃寺後の今年7月に歴史館の男性ボランティア(66)が熊本の石ではないかと気づき、学芸員が石棺の破片と確認した。

 森田克行・特別館長は「磐井を倒して九州沿岸の制海権を握った大和王権が、熊本から1千キロ以上を海路で運ばせたのだろう」とみている。石材は12日から歴史館(072・682・0820)で展示される。(編集委員・今井邦彦)

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