「猪名野笹原」は大嘘くさいぞ?!

百人一首で詠われる
「有馬(ありま)山 猪名(ゐな)の笹原 風吹けば
          いでそよ人を 忘れやはする」

は紫式部の娘の藤原賢子(大弐三位)の詠んだ歌。

【百人一首講座】有馬山猪名のささ原風吹けば いでそよ人を忘れやはする─大弐三位によると

『【有馬山】
 摂津の国・有馬郡(現在の兵庫県神戸市北区有馬町)にある山です。昔から猪名(いな)とは組でよく歌に詠まれます。
 【猪名(いな)の笹原】
 有馬山の南東にあたる、摂津の国猪名川に沿った平地。現在の兵庫県尼崎市・伊丹市・川西市あたりになります。昔は、この辺りは一面に笹が生えていました。』

『この歌に登場する「猪名」は兵庫県南東部の猪名川の両岸に広がる平地で、一面の笹原でした。万葉の昔から「猪名」と「有馬山」は一対にして詠まれることが多い場所です。
 「しなが鳥 猪名野を来れば有馬山 夕霧立ちぬ 宿(やどり)はなくて」(万葉集巻7 作者未詳)』

学校でもそう教えられて『「猪名」は兵庫県南東部の猪名川の両岸に広がる平地で、一面の笹原でした』と刷り込まれていた。
近世の摂津名所図会でも猪名野笹原が同様のイメージで画かれていた。
しかし、よく見ると鵯塚古墳(金塚?)が歌に詠まれた「猪名笹原」の名残として描かれていてるだけで既に無理がある。

この歌が詠まれたのは11世紀前半で奥州で産出される黄金の流通で平安時代の最盛期だっただろう。
源平合戦はまだ後のことで多田源氏の隆盛を支えたこの地域はかなり農業生産力が高かったはずである。

にもかかわらず『「猪名」は兵庫県南東部の猪名川の両岸に広がる平地で、一面の笹原でした』なんて冷静に考えるとおかしい。

猪名川の両岸流域は弥生時代には既に水稲栽培が行われていた。武庫川の両岸流域も同様で、弥生時代後期にはこの一帯には水田が広がっていたことが遺跡から明らかだ。

図説 尼崎の歴史-古代編
田能遺跡(たのいせき) 尼崎市公式ホームページ
勝福寺古墳デジタル歴史講座
荒牧遺跡/伊丹市ホームページ
武庫庄遺跡 尼崎市


続く古墳時代には伊丹段丘以外の広い範囲で条里が整備されていて水稲だけでなく水利の良くない場所や干拓後の塩分の多い場所では綿花雑穀が栽培されていた。
条里制起源に関する一考察 条里制起源に関する一考察
条理制起源に関する一考察 地理学評論 Vol. 34 (1961) No. 12 P 631-649 渡辺久雄より

図2 条里概念図(「かわにし」より)

図2 条里概念図(「かわにし」より)●印が小阪田遺跡

伊丹文化財 伊丹市文化財保存協会絲海 第32号 川辺郡と豊島郡の条里と郡界~小阪田遺跡の発掘調査から~ 小長谷正治(2007.6.26)(PDF)より


『尼崎市史』第1巻(昭和41年)付図4「尼崎市域を中心とした条里図」をもとに、河辺南条の里の復元についてはその後の研究成果による修正を加えて作成しました。
参考文献:八木哲浩「近世村絵図から見た摂津川辺郡条里」(『市史研究紀要たからづか』創刊号、昭和59年2月)


条里が整備された地域には多くの古墳が築造されていてこの地域に多くの人が暮らしていたことがうかがえる。

▼猪名川流域の古墳一覧

1.長尾山古墳 20.木部桃山遺跡 39.新稲古墳 57.小石塚古墳 76.田能遺跡第2号
2.万籟山古墳 21.紅葉古墳 40.桜古墳 58.桜塚古墳 77.緑ヶ丘古墳群
3.中山荘園古墳 22.娯三堂古墳 41.中尾塚古墳 59.荒神塚古墳 78.荒牧古墳
4.中山寺白鳥塚古墳 23.娯三堂南古墳 42.稲荷社古墳 60.小塚古墳 猪名野古墳群(79〜91)
5.中筋山手古墳群 24.城山古墳 43.太鼓塚古墳群 61.豊中大塚古墳 79.上臈塚古墳跡
6.中筋山手東古墳群 25.池田城下層 44.待兼山古墳 62.御獅子塚古墳 80.有岡城遺跡(204次)
7.山本古墳群 26.池田茶臼山古墳 45.待兼山2号墳 63.出雲塚古墳 81.鵯塚砦古墳跡
8.山本奥古墳群 27.五月ヶ丘古墳 46.待兼山3号墳 64.狐塚古墳 82.南本町遺跡古墳群
9.平井古墳群 28.宇保稲津彦神社古墳 47.待兼山4号墳 65.北天平塚古墳 83.猪名寺廃寺
10.雲雀丘西尾根古墳群 29.脇塚古墳 48.待兼山5号墳 66.南天平塚古墳 84.御願塚古墳
11.雲雀丘東尾根古墳群 30.鉢塚古墳 49.石塚古墳 67.女塚古墳 85.園田大塚山古墳
12.雲雀丘古墳群 31.二子塚古墳 50.麻田御神山古墳 68.嫁廻塚古墳 86.南清水古墳
13.安倉高塚古墳 32.善海1号墳 51.金寺山廃寺(1次) 69.桜塚38号墳 87.食満塚古墳
14.豆坂古墳群 33.善海2号墳 52.新免宮山古墳群 70.桜塚39号墳 88.池田山古墳
15.萩原古墳群 34.野田塚古墳 53.新免古墳群 71.桜塚42号墳 89.柏木古墳
16.勝福寺古墳 35.狐塚古墳 54.山ノ上遺跡(10・14次) 72.桜塚43号墳 90.御園古墳
17.小戸遺跡 36.石橋古墳 桜塚古墳群(55〜73) 73.桜塚44号墳 91.伊居太古墳(非古墳)
18.木部1号墳 37.宮ノ前古墳群 55.御位塚古墳 74.利倉南遺跡(1次)
19.木部2号墳 38.豊島南遺跡 56.大石塚古墳 75.田能遺跡第1号


渡来氏族の猪名部・佐伯部が猪名川流域に定住しての川辺郡・豊島郡を開発した。

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図1 河辺郡・豊島郡内の渡来氏族と職能部民の分布

海陸交通の掌握と部民の設置
 図説 尼崎の歴史-古代編
より
『猪名部の伝承と職掌
 猪名川流域に住み着いた人々のなかには、朝鮮半島から渡来してきた集団もいました。
 『日本書紀』の応神天皇31年8月の条には、次のような伝承があります。朝廷の船五百隻を造り、武庫水門〔むこのみなと〕に停泊させていたところ、倭〔わ〕国に使いにきていた新羅〔しらぎ〕の船から失火して、朝廷の船が全焼してしまいました。新羅の王は贖罪〔しょくざい〕として優れた工匠を倭国に献上しましたが、それが猪名部の始祖だという伝えです。この記事は細部にわたって海にまつわる造船・製塩の神事にいろどられており、時代が応神天皇の治世とされることなど、すべてを史実と受け取ることができない伝承ですが、大阪湾岸の港湾である武庫水門および猪名湊〔いなのみなと〕と密接な造船・木工の集団が、この地に渡来してきて住みついたという事実が核にあります。猪名川流域に居住したゆえに、彼らの集団が「猪名部」と呼ばれるようになったわけです。』

『猪名県と佐伯部
 猪名部が造船や木工の技術者集団として海上交通との関連で配置されたのに対し、陸上交通に関係するのが佐伯部〔さえきべ〕の設置です。『日本書紀』仁徳天皇38年7月条に、次のような説話があります。
 仁徳天皇が摂津の莵餓野〔とがの〕の地で皇后とともに鹿の鳴き声を聞いて慰みとしていたところ、ある日鳴き声がしなくなりました。ちょうど猪名県〔あがた〕から食肉が贄として貢納されてきたところから、鹿を殺したのが猪名県の佐伯部であることがわかりました。天皇は怒って安芸国に移して遠ざけたというのです。
 佐伯部の民の野蛮な行ないをとがめた話となっていますが、核にある事実としては佐伯部が狩猟を特技とする部民であり、猪名県からの食料の貢納を日常の職務としていることです。そこからは、狩猟を得意とする彼らが、大和王権の下で軍事力として政策的に配置されていたことが考えられます。
 右の説話には、猪名県が現在のどこの地にあったと確定する手がかりは示されていません。しかし、のちの奈良・平安時代になって為奈野牧〔いなのまき〕が置かれ、また王族や藤原氏の狩猟地となった伊丹台地から猪名川下流の平原の景観は、説話の舞台になっている「猪名県」にふさわしいものです。律令制度のもと、この近辺には山陽道が開かれましたが、この地域は律令体制以前の古くより、摂津平野から中国地方に向けての陸上交通の要衝だったはずです。この地域に狩猟地としての王権の所領を確保し、かつ狩猟民である佐伯部が軍事的に交通の検断(統制)を行なったと考えれば、尼崎地域へのこれら部民の設置の歴史的意味があきらかになってきます。』

猪名県の狩場は千里丘陵・北摂山系山麓が妥当

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「莵餓野〔とがの〕」(兎我野・斗賀野)の地名を残すのは大阪市北区で当時の河内湖が大阪湾に開いた河口の南岸付近になる。猪名郡+豊島郡=猪名県と推定すると莵餓野ははるか離れた対岸で「核にある事実」は佐伯部についての日本書紀の記述は作為的ということだ。

『奈良・平安時代になって為奈野牧〔いなのまき〕が置かれ』
北摂山系山麓の扇状地は水稲栽培が困難な土地だったので放牧地になっていたことは多田源氏が多田銀山の財力と共に馬を確保していただろうから間違いではないだろう。
現在の伊丹市荒牧(為奈野牧)や箕面市牧落(豊島牧)の「牧」の付く地名はその名残というのが通説で、地形的にも説得力がある。

牧場は官営の「近都牧」だったので猟場などありえない。
ちなみに福島大学リポジトリ古代における日本の放牧に関する歴史地理的考察(1987)(PDF)では
『牧飼
 自由放牧とならんで牧飼も普及した.牧とは一定の土地を劃し,家畜をかうために垣をめぐらしてある地所をさす』
『摂津国為奈野は885年太政大臣基経の狩鳥の野となった際,「樵蘇放牧依旧勿制」と下令された.
 嘉祥3年の官符は「或公或私」が妄に山野を占拠するのを禁じているから,禁野に関するばかりでなく,一般の山野にも言及している.山野の禁には放牧樵蘇は含まれぬことが明示されると共に.一般の山野を独占し民業を妨げるを重ねて禁じている.禁野での放牧を禁止する預人があって,百姓が困ったためこの官符がだされたのであろう.百姓の放牧樵蘇が禁野において保証されるぐらいであるから,当然一般の山野では放牧樵蘇が自由であった筈である.』
ということだ。
宮廷貴族は牧のように人に管理された場所を強引に狩場にするが百姓の放牧の仕事を侵害することを禁じたのだ。
現在に置き換えると「官僚が牧場を取り上げて自分専用のゴルフ場にしたらダメ!」ということだ。
宮廷貴族が自然の里山で狩りをするイメージが間違っていて牧場で事前に生け捕りにした鹿を繋いでいてそれを弓で射るというのが狩りの実態ではなかったかと想像する。

ちなみに牧場には牧草を生やしていただろう。笹原は牧草にはならないから毎春山焼きをするのだろうし。

この他の箇所で『為奈野牧』が「伊丹市荒牧」を「伊丹市稲野」と混同している?くらいだから仕方がないだろう。

参考:奈良文化財研究所学術情報リポジトリ2 馬寮についての史料的検討(PDF)
   官牧の種類 (本庄市史 通史編 Ⅰより) 阿久原牧
   箕面の歴史/箕面市

『王族や藤原氏の狩猟地となった伊丹台地から猪名川下流の平原の景観は、説話の舞台になっている「猪名県」にふさわしいものです。』
伊丹台地は伊丹断層から昆陽池地溝帯のまでの台地で古山陽道が東北から南西に一直線に通っている。
台地の東の段丘の南には猪名寺(廃寺)が北には伊丹廃寺が建てられていた。ともに白鳳期の建立で共に法隆寺と同様の伽藍だった。
伊丹台地は当時の摂津の文化・信仰の中心地であったのだ。当然寺院の周囲には寺院を建立した集団が居住していただろうし、仕えた人たちも居住していたに違いない。
彼らすべてを賄うために猪名川下流域は水田地帯でなければおかしいのだ。
狩猟など論外の地であっただろう。

参考:むくげの会播磨の古代寺院と造寺・知識集団44 西摂の古代寺院1 ― 猪名寺廃寺 ―

そして奈良時代に昆陽池地溝帯には昆陽の上池(現昆陽池)と下池が造られて下流に灌漑用水が供されていた。

猟場なら千里丘陵・北摂山系山麓と考えるのが妥当だ。
猪名郡(河辺郡)+豊島郡=猪名県だったので千里丘陵・北摂山系山麓が「猪名野」と混同されて、猪名野=猪名川流域に勘違いされたのだ。

原田西遺跡大阪府域 1981年(PDF)より
『以上、今回の調査地の状況、ならびに特定の遺物について述べてきたのであるが、古代から現代に至るまで、この地は居住地にはあまり通していなかったようである。そのことは堆積の
状況が如実に示しているように、中世に至るまで幾多の氾濫を受けていたことからも窺える。
 また水田地帯であったとみても、弥生時代から古墳時代は湿田、それ以後中世まで半湿田、近世に入ってやっと乾日経営ができるようになった地域である。』

あまりに変なまとめだ。
水田は湿地帯であって氾濫原でないとおかしいので居住地にはあまり適していなかったのは当然。


北摂山本の歴史 – 歴史の小径より
… 「 北摂山本」は 我国 三大園芸地 のひとつ …

宝塚市山本を中心とする長尾地区は、日本三大園芸地のひとつに挙げられる
宝塚市山本を中心とする旧長尾地区は、埼玉県川口市安行・福岡県久留米市田主丸と並んで、日本三大園芸地に挙げられている。   
鎌倉時代後期、正応年間(1288~1293)伏見天皇の頃に、第12代山本荘司坂上頼定は幕府第8代将軍の久明(ひさあきら)親王に招かれて、「御庭奉行」を勤めた。
[ ※ 鎌倉時代後期は皇族を将軍に迎えていた。久明親王は後深草天皇の皇子である。]
宝塚市の山本は我国の園芸発祥地であり、その歴史は古く大和時代に遡り、綿・麻など繊維植物や漢方薬草の類も、山本あたりを中心に栽培されていた。
  阪上太三氏著「伊丹台地の史話と昔ばなし(第2集)」あさひ高速出版 参照)

山本郷とは、東は猪名川、西は昆陽、南は有岡(伊丹市)、北は満願寺を含む長尾山一帯、飛び地として呉庭荘(池田市宇保)・南野村(伊丹市)および安倉村で、伊丹台地のほとんどであった。
「山本の郷土史」  松尾・天満神社改築委員会 s63 発行 阪上太三氏編集』

伊丹台地が荒れ野ではなかった情報を見つけた。出典を検索中。


(・・・続く)
予告:古代の灌漑事業。


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