川辺郡と豊島郡の条里と郡界 ~小阪田遺跡の発掘調査から~ より

伊丹文化財 伊丹市文化財保存協会絲海 第32号(PDF)より
絲海 第32号 2007年6月26日

川辺郡と豊島郡の条里と郡界
~小阪田遺跡の発掘調査から~

小長谷 正治

 伊丹市域は、かつて摂津国川辺郡に属していました。摂津国には川辺郡を含め、住吉郡・百済郡・東生郡など13の郡(図1)があり、市域の西側は武庫郡と、東側は豊島郡との境界(郡界)がありました。豊島郡は現在の大阪府池田市・豊中市と箕面市ですから、川辺郡と豊島郡の郡界は、すなわち府県境ともなっています。
 川辺郡小坂田村は、その郡界に位置していました。明治22年に神津村と合併し、昭和16年の阪神国際空港(現在の大阪国際空港)の開港により、解村しています。旧村域は、飛行場となり、村の中心部はターミナルビル付近です。

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図1 小阪田遺跡の位置(報告書より)●印が小阪田遺跡

 平成2年度と5年度の2カ年、阪神高速池田線の延伸工事に伴って、小阪田遺跡の発掘調査が兵庫県教育委員会によって行われました。この遺跡は、旧小坂田村の北端にあたり、字名は「都賀元」でした。現在の地名は伊丹市小阪田となっています。江戸時代からの村名は「坂」の字が用いられ、昭和45年の「遺跡分布地図及び地名表」や平成元年に市教委が発行した「埋蔵文化財保護の手引」にも「坂」の字が使われていますが、県発行の最新版の遺跡地図には「阪」の字が使われていますので、遺跡の名称には「阪」を用いることにします。
 この遺跡は、弥生時代から平安時代にかけての遺跡であることが、市教委が行った分布調査で明らかにされていましたが、今回の本発掘調査で、遺跡の始まりが縄文後期に遡ること、また中世まで続く複合遺跡であることがわかりました。この発掘調査の成果が、昨年に『小阪田遺跡-大阪府道・兵庫県道高速大阪池田線(延伸部)建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-』として刊行されましたので、その成果をまじえて紹介します。
 小阪田遺跡のある猪名川東岸の流域には、古代の条里制の地割が残ることで知られ、『伊丹市史』をはじめ専門書にも詳しく分析が行われています。条里制は、広範囲にわたって土地を区画するもので、1町(約109m)四方を坪と呼び、6町(約654m)四方を里と呼んでいました。南北方向、東西方向に条と里名を付け、何条何里何坪というふうに場所の特定が出来るようになっていました。ふつう1郡を単位に条里制地割が施行されました。

図2 条里概念図(「かわにし」より)

図2 条里概念図(「かわにし」より)●印が小阪田遺跡

 猪名川東岸一帯には、方形区画の地割のみならず、「三ノ坪」・「六ノ坪」・「七八ノ坪」という坪地名が残っており、条里の復原がかなり詳細に行われています。それによると、伊丹市域には、荒牧から鴻池地域にかけては「川辺北条」、猪名川東岸の森本から尼崎市にかけては「川辺南条」と呼ばれる条里が施行され、瑞ケ池・昆陽池から武庫川にかけての一帯は、無条里地帯でした。市域の西部には「武庫東条」という条里が広がり、昆陽寺のある寺本、その南の・野間などはその中に入っています。従って、この地域は当時武庫郡であったことになります(図2)。
 小阪田遺跡の位置する一帯はというと、「豊島北条」に含まれています。豊島郡の条里は北条と南条に分けられ、1郡2条里となっていました。これは、川辺郡も同様ですし、西隣の武庫郡は北条・東条・西条の、1郡3条里です。
 条里制は、大化改新で採用された班田収受法(一定の年齢に達した人に一定の面積の口分田を分け与える法)と一体となる制度で、班田制が郡単位で行われていましたので、条里制も郡単位で施行されたと考えられています。ですから、「豊島北条・同南条」と「川辺南条」との境が、当時の川辺郡と豊島郡の郡界ということになります。西桑津以北では猪名川が、南部の森本・岩屋あたりでは現在の府県境と近いところに郡界がありました。小坂田村地域は「豊島北条」に位置しますので、条里制施行当時は豊島郡に属していたことになります。
 平安時代中期に編纂された『倭名類聚鈔(和名類聚抄:わみょうるいじゅしょう)』には、「桑津」が豊島郡の7郷の一つに上げられており、また、鎌倉初期の安貞元年(1221)の『勝尾寺文書』には、「摂津国豊島北条西桑津新庄」とありますので、少なくとも鎌倉初期までは西桑津以北の地域は豊島郡に属していたことがわかります。では、いつ頃から小坂田を含めた猪名川東岸地域が、川辺郡に変更されたのでしょうか。実は、それを示す資料はなく、漠然と中世段階で変更されたと推定されてきたのです。
 そこに昨年刊行された小阪田遺跡の発掘調査報告書が重要な資料を提供してくれました。この遺跡は、池田市との境界を越えて広がっていますが、その名称は伊丹市側では小阪田遺跡、池田市側で豊島南遺跡と命名されています。伊丹市側の調査は兵庫県で行われ、池田市側は池田市で執り行われました。
 現在の市境(府県境)は、かなり複雑になっていますが、発掘調査で市境に沿って延びる溝(SD105)が発見されたのです(図3)。溝の規模は幅2m、深さ50~75cmのかなり立派な溝です。溝の中から、中世後半期(室町時代)の陶磁器が出土しましたので、その頃使われていた溝と判明しました。調査担当の篠宮正さんの考察によれば、この溝こそ郡界を示す溝で、この溝の発見により、中世後半期には川辺郡と豊島郡の郡界が現在の場所に定まったと解釈されています。

図3 郡界の溝(SD105 報告書より)

図3 郡界の溝(SD105 報告書より)

 班田収受法は、大化改新に始まりますが、土地私有の進展、口分田の不足、農民の逃亡や耕地の荒廃など、班田制を揺るがす事態が深刻化し、平安時代の初めころには制度の崩壊が進んでいきました。その結果、条里制の開拓や維持も行われなくなり、条里の区画や郡界も変化していきました。そうした過程を経て、川辺郡と豊島郡の郡界も変化していったのでしょう。
 今のところ、猪名川にあった当時の郡界が、一度に変更されたのかわかりませんが、小阪田遺跡の発掘調査によって、郡界の変化が、年代的に押さえられたのは大きな成果と考えられます。

(伊丹市立博物館)

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