古墳から未知の石室、物部氏有力者の墓か 奈良・天理

古墳から未知の石室、物部氏有力者の墓か 奈良・天理:朝日新聞デジタルより
古墳から未知の石室、物部氏有力者の墓か 奈良・天理
佐藤圭司2016年4月7日00時03分
 奈良県天理市豊田町の豊田狐塚(とよだきつねづか)古墳で、6世紀半ばの未知の横穴式石室が見つかった。市教育委員会が6日発表した。ヤマト政権の有力豪族、物部(もののべ)氏の有力者の墓の可能性が高く、木棺の痕跡が3基分あったことから、当時の埋葬を探る手がかりとなるという。

 都市計画道路の建設に伴う発掘調査で、全長約4・4メートル、奥壁の幅約2・2メートル、高さ約2・2メートルの石室を確認。天井石などは失われていたが、壁面は30~100センチ程度の石材を積んでいた。床面に残る木片から、手前に二つ、奥に一つの3基の木棺(いずれも長さ約180センチ、幅約60センチ)が安置されていた可能性があるという。

 一部盗掘を受けていたが、須恵器50点以上や土師器(はじき)などの土器、玉類、馬具や武器などの鉄製品、鏡などの副葬品も残っていた。

 市教委は、直径約20メートルの円墳と推定。物部氏の拠点とされる布留(ふる)遺跡や同氏ゆかりの石上(いそのかみ)神宮を見下ろす高台に位置することもあり、同氏の首長層に次ぐ有力者の墓の可能性が高いとみている。北西約100メートルでは一昨年~昨年、未知の横穴式石室を持つ円墳「豊田トンド山古墳」(推定直径約30メートル)が見つかっている。

 物部氏は仏教受け入れや皇位継承をめぐり、崇仏派の有力豪族蘇我(そが)氏と対立。6世紀末に物部守屋(もりや)が蘇我馬子(うまこ)に倒され、衰退した。

 手前の須恵器には奥の須恵器よりやや新しい時期のものがあることから、追葬が行われた可能性があるという。大阪府太子町の聖徳太子の墓(7世紀)も、太子と太子の母、太子の妃が埋葬されたとされるが、県立橿原考古学研究所の泉森(いずもり)皎(こう)特別指導研究員は「足飾りとみられる土玉があった位置などから、奥の棺の被葬者は女性ではないか。当時の埋葬方法や家族のあり方を探る手がかりとなる」と話す。

 現地説明会は9日午後1時~3時半。雨天は10日に順延。JR・近鉄天理駅から徒歩30分。問い合わせは市教委文化財課(0743・65・5720)へ。(佐藤圭司)

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