伊丹市に残る古代山陰道(古山陰道)を楽しもう!!

たった400年前の有岡城どころではなく1300年前の行基の昆陽池より更に100年ほど古い伊丹廃寺址と同時代の1368年前(西暦647年)までには造られていた古山陰道だ。
難波京から有馬温泉や日本海方面に通じる計画古道がここまで長い距離できれいに残っているのは素晴らしい。

伊丹市の古山陰道(古代山陰道) – Google map
伊丹市の古山陰道(古代山陰道)

昆陽井川の資料を探していると興味深い論文が見つかった。
「難波京から有馬温泉を指した計画古道」(足利健亮 1978)という論文。
これは『難波京から昆陽を経て武庫川谷口を直指する計画古道の存在を明らかにしている。』のだ。 

kodo1
kodo2『北東のAから南西のB方向に曲折しながら通じる道は近世の西国街道であるが、大筋では古代の山陽道を踏襲する。この道の著しい曲折は恐らく古代から近世までの間に次第に形成されたもので、原初的にはAーFを結んだ直線、あるいはBーDを結んだ直線上に測設された計画古道であったとみて大過ないと考える。次に、C付近から昆陽池、瑞ケ池の西辺を縫って北北東向する道が見え、それは川辺郡の式内社である加茂神社付近を指して進むようである。加茂神社の位置は伊丹段丘面の北東端に当たり、その先へ直進すれば猪名川の谷を遡り、長尾山中の直道に接続することになる。一方、この道に一致する直線道を逆に南南西にたどれば東武庫、西武庫の古い集落、すなわち武庫郡名の発生地であり、したがって武庫郡の中心をなす地区であった可能性の大きい一帯に至る。これらのことはCーG道路の古さを示唆するように思われる。直線が昆陽池の一角によって断ち切られているから、昆陽池の拡がりに変化がなかったとすれば、CーG道路は池の造成に先行してあったと確言できる。これらAーF古道、CーG古道を切って南東から北西へ直進するHーJ道路が、他の二道よりずっとあざやかな直線を示して、そこにある。』
(足利健亮『日本古代地理研究』)


引用してる論文を見てみる。

「播磨・西摂の計画古道と条里」(吉本昌弘 1982)(PDF)より
『Ⅲ.難波京へ通ずる古山陰道をめぐって』より
『 さらに筆者はこの計画古道が単なる丹波路であったとは考えていない。というのは、難波京を中心に考えた場合、丹波国への最短距離にあたり、難波京が正都となった時代の山陰道と考えるのがきわめて自然であるからである。さらに飛鳥・藤原京時代にも山陰道として機能していた可能性が高いものと考える。「古事記」垂仁段には出雲へ行くのに「那良戸よりは跛盲遇はむ、大坂戸よりも赤跛盲遇はむ、唯木戸ぞ掖月の吉戸」とあり。那良戸が山陰道への出口にあたると考えられるから、大坂戸も同様に山陰方面への出口と考えてよいからである。おそらく河内国の丹比道を経由して難波京に至り、難波京から上述の丹波道へ続くルートが那良戸より北上するルートと共に山陰道として意識されていたのであろう。とにかく、難波京は長岡遷都まで存続したのであるから、武庫川河谷の計画古道が奈良時代を通じて山陰道として意識されていたことには違いないであろう。
 これに関して足利健亮は「難波京から有馬温泉を指した計画古道」と題する論文において、難波京から昆陽を経て武庫川谷口を直指する計画古道の存在を明らかにしている。以上述べてきた有馬郡の計画古道は、山口から宝塚の生瀬へ抜け。ほぼ間違いなしに足利のいう計画古道に連続するものと考えられる。そこでこのルートが難波京からの古山陰道に相応しいものであると考えられる2、3の点をあげてみたい。
 「日本書紀」には三度の有馬温湯行幸の記事がある。おそらく奈良時代にもいく度かの行幸があったものと想像される。さて、大化三年十月十一日条には「天皇、有馬温湯に幸す。左右大臣・群卿大夫、従なり。十二月の晦に、天皇、温湯より還りまして、武庫行宮に停まりたまふ」とある。大化改新事業をおえた孝徳天皇ら一行は、新都「難波京」から有馬温湯へ行幸したと考えるのが正しい。従って武庫行宮は、難波京と有馬温湯を結ぶ線に沿って存在したと考えられる。足利氏復原の計画古道に沿って宝塚市大字「蔵人」内に小字「高司」がある(第8図)。「高司」は「主鷹司」という官職名から来たものと考えられ、「日本三代実録」には次のような注目すべき記事がある。「弘仁十一年以来、主鷹司鷹飼州人犬州牙食料、毎月充彼司。其中割鷹飼十人犬十牙料、充送蔵人所」つまりここでは、主鷹司と蔵人所とが密接な関係にあったことが伺える。しかも「蔵人」「高司」の地名の由来は蔵人所と主鷹司にあったと考えられ、両者は天皇とも密接に関係した役所と考えられるところから、両地名が計画古道に沿うことは武庫行宮の位置を考える上できわめて示唆的である。さらに「高司」の西を限る小河川は「ごんじょ川」とよばれ、「御所川」の意と解することができる。またその約1町東に小字「御所垣内」があり、その地積が方1町であることから、筆者はこの地が武庫行宮址にあたるのではないかと考える。以上述べたように蔵人や主鷹司の役所や武庫行宮が計画古道に沿うことが注目される。
第8図 宝塚市域の計画古道(A-B-C-D-E) 次に注目したいのは、「高司」と計画古道を隔てて「御所前」の地名があることである。大化改新詔にあるように、古代の駅路には駅家が設けられたが、その駅間距離は養老令によると30里、約16kmである。難波京を都亭駅とすると武庫川あたりに一駅が置かれたことになり、「御所前」は正に武庫川右岸にあたる。一方、駅家の存在が確かめられている地点には「マエド」「マエイケ」|フルマエ」などの地名が残り、これは「ウマヤ」が「マヤ」さらに「マエ」と訛っていったものと考えられている。以上の二点から「御所前」を「御所の近傍に置かれた駅家」と解すると、今問題にしている計画古道は正に古山陰道と呼ぶに相応しい駅路であったということになる。
 また次の点も参考になろう。『有馬郡誌』には「郡の山口村に字奉尊堂といえるが残り、孝徳天皇を祀れるあるは蓋し当時の行宮の跡なるべく、此の地点は天皇が長柄豊崎宮より西して武庫郡見佐より武庫川を渡り、蔵人村なる武庫行宮に入られ、武庫川の西岸を今の生瀬、名塩を経て、有馬山を横ぎり、有馬山口に着き、此の行宮に着御ありしものの如し」とあり、その奉尊堂址が、有馬温泉から北へはずれた想定古道上に位置するのである。』

「摂津国有馬郡を通る計画古道と条里」(吉本昌弘 1979)(PDF)より
『三、計画古道の意味
 さて、この計画古道の存在意味を考えていくと、単に難波から丹波国へ通ずる交通路ではなくて、実はこれが、難波に都が置かれた時期、ことによると飛鳥・藤原に都が置かれた時期にも存続し続けた古山陰道ではなかったかと考えられるのである。
 これに関して足利健亮は「難波京から有馬温泉を指した計画古道」と題する論文において、難波京から昆陽を経て武庫川谷口を直指する計画古道の存在を明らかにしている。以上述べてきた有馬郡を通る計画古道は、山口から宝塚の生瀬へ抜け、ほほ間違いなしに足利のいう計画古道に連続するものと考えられる(図5)。このルートは、難波から丹波へ通ずる最短路にあたり、難波京からの山陰道として極めて自然である。従ってこの古道が、難波に都が営まれた孝徳期、天武期、たよぴ聖武期の難波京から発した古山陰道であった蓋然性は高く、奈良時代を通じての要路であったと考えられる。
図5.摂津国の計画古道(足利論文より)大化三年に既にこの計画古道が完成していたのであれば、『日本書紀』にみえる孝徳天皇一行の有馬温泉行幸は、この古山陰道を利用したものと思われる。『有馬郡誌』、に「郡の山口村に字奉奠堂といへるが残り、孝徳天皇を祀れるあるは蓋し当時の行宮の跡なるべく、此の地点は天皇が長柄豊崎宮より西して武庫郡見佐より武庫川を渡り、蔵人村なる武庫行宮に入られ、武庫川の西岸を今の生瀬、名塩を経て、有馬山を横ぎり、有馬山口に着き、此の行宮に着御ありしものの如し」と伝える奉奠堂址か、有馬温泉から北へはずれた想定古道上に位置することも、そういう事情を物語っているのではあるまいか。またコアザ「京口」の意味あいも、想定古道を古山陰道と考えることによって一層理解しやすくなる。』

歴史地理学 49 古代宮都と周辺景観の保全一難波京と古代大坂平野を事例として一(木原克司 2007)(PDF)より

図 1 古代大坂の自然景観 『Ⅱ.古代大坂の自然景観
 図1は、上町丘陵や河内平野でのこれまでの考古学的な発掘調査の資料、昭和46年撮影の2万分の1空中写真やボーリング資料をもとに、現大阪市域を中心として7~8世紀の微地形を復原したものである。』

『Ⅳ.難波京および京周辺部の歴史的景観と保全
 難波に都が造営されたことは、『日本書紀』孝徳天皇大化元年(645)冬12月条の「都を難波長柄豊碕に遷す」、同白雉元年(650)冬10月条の「宮の堺の標を立つ」、同白雉3年(652)秋9月条の「宮造ること巳に訖りぬ。其の宮殿の状、殫に論ふべからず」、天武8年(679)11月条の「難波に羅城を築く」、天武12年(683)12月条の「凡そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先ず難波に都つくらむと欲ふ」、『続日本紀』聖武天皇神亀3年(726)冬10月条の「藤原宇合を知造難波宮事とす」や同天平16年(744)2月条の「今、難波宮を以て定めて皇都とす」などの記録からも明らかである。昭和29年から継続されている発掘調査の成果を通して、孝徳期と天武期の難波宮が合わせて前期難波宮と呼称され、奈良時代の聖武期の難波宮が後期難波宮と呼称されている。』

難波京の西から西京極大路が北に延びて中津川付近の長柄豊崎宮(前期難波宮)の北西付近から古山陰道が北西に向けて始まっていると推測されている。
現在の天神橋筋商店街の北の端の長柄橋南詰付近になる。


図2 長柄豊碕宮および前期難波宮城の規模『(1)長柄豊晴宮および天武期難波宮の宮域
 長柄豊碕宮は、孝徳天皇白雉元年(650)冬10月から白雉3年(652)秋9月にかけて造営された宮殿であり、京を伴わない宮のみの構造と考えられる。その構造は、近年の発掘調査の成果から推定すると、一本柱塀で固まれた南北700~900m、東西600m程度の長方形の宮域(図2のI-J-M-NあるいはI-J-K-L)内に前期難波宮の内裏・朝堂院およびいくらかの官街施設(官街)を、そして周辺の平坦部に住宅を配置したものと考えられる。北西隅で検出された水利施設は、7世紀中頃過ぎにはその機能を失ったと報告されており長柄豊碕宮に付属した施設と考えられる。また、図2に黒丸で示した前期難波宮関係の建物は、内裏・朝堂院などの中枢建物群のほとんどが焼けているにもかかわらず、火災痕跡は認めらない。こうした建物群もおそらくはこの時期の施設であり、天武朝の難波京造営時に宮域の変更に伴って、先の宮域を画する一本柱塀を含めて撤去されたと考えるべきであろう。なお、当該期の都の構造は、上記の宮域周辺部の平坦地に官街や宅地を配置したものと推定される。』


図 3 難波京および、京周辺の歴史的景観『(2)難波京と京内に遺存する歴史的景観』より
『難波京西限の西京極大路は、現在の松屋町筋および天神橋筋に一致し、大阪市の南北の幹線道路の1つとなっている。なかでも延長2.5kmの天神橋筋は大阪でも有数の商店街を形成し、天満砂堆の最も高い位置を南北に貫いている。足利健亮は、この道を『日本書紀』大化3年 (647) 10月条に見える孝徳天皇の有馬温泉行幸のルートと推定し、7~8世紀の難波の計画古道の1つとして位置づけている。』


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