聖徳太子は蘇我馬子のことだった

んじゃないだろうか。

「聖徳太子」「鎖国」復活へ 指導要領改訂案を修正:朝日新聞デジタルより
『「聖徳太子」「鎖国」復活へ 指導要領改訂案を修正
水沢健一2017年3月20日08時54分

 文部科学省が学習指導要領の改訂案で「聖徳太子」「鎖国」など、歴史上の人物や出来事などの表記を変えたことに対し、「教えづらい」「わかりにくい」などの批判が集まり、同省が一転、元に戻したり、復活させたりすることがわかった。こうした修正を反映した新指導要領は今月末に告示される。

聖徳太子、教科書で表記変更は妥当? 国会で論戦に
 文科省は15日まで、改訂案についてパブリックコメントで意見を募ったが、特に不評だったのが聖徳太子の表記。改訂案では、小学校で「聖徳太子(厩戸王〈うまやどのおう〉)」、中学校は「厩戸王(聖徳太子)」としていた。学会などの歴史研究を踏まえたもので、小学校ではよく知られた「聖徳太子」を、中学校では史実を重視して「厩戸王」を前に出した。ところが、「小中で表記が異なると教えづらい」といった声が相次ぎ、国会でも「連続性がなければいけない」「歴史に対する冒瀆(ぼうとく)だ」と批判された。

 このため、文科省は小中とも「聖徳太子」に戻し、中学の指導要領では「古事記や日本書紀で『厩戸皇子』などと表記され、後に『聖徳太子』と称されるようになったことに触れる」と加えることにした。

 改訂案をめぐっては、保守系の「新しい歴史教科書をつくる会」が「律令国家形成の出発点となった聖徳太子を抹殺すれば、日本を主体とした古代史のストーリーはほとんど崩壊する」などとして、従来通りの扱いを同省に求めていた。一方で、いまの教科書は「厩戸皇子」との併記が増えている。

 また、「元寇」も、モンゴル帝国の拡大をイメージしやすいよう、中学校では「モンゴルの襲来(元寇)」に変える予定だったが、「元寇(モンゴル帝国の襲来)」と従来の表記にした。大和朝廷についても、改訂案で「大和政権(大和朝廷)」としたが、前後を入れ替えて「大和朝廷(大和政権)」とする。

 「鎖国」も、江戸幕府が窓口を制限しながらも海外との交易を続けていたことなどを重視し、改訂案で「幕府の対外政策」とした。だが、「『開国』があるのに『鎖国』がないと教えづらい」などの意見が続出。交流を制限したのは事実だとして元に戻した。(水沢健一)

     ◇

■学習指導要領をめぐる表記の変化(現行→改訂案→最終案の順)

【聖徳太子】
〈小学校〉聖徳太子→聖徳太子(厩戸王)→聖徳太子
〈中学校〉聖徳太子→厩戸王(聖徳太子)→聖徳太子

【元寇】
〈中学校〉元寇→モンゴルの襲来(元寇)→元寇(モンゴル帝国の襲来)

【鎖国】
〈小学校〉鎖国→幕府の対外政策→鎖国などの幕府の政策
〈中学校〉鎖国政策→江戸幕府の対外政策→鎖国などの幕府の対外政策』


兵庫県宝塚市にある中山寺
安産祈願で有名で聖徳太子(厩戸王)が建立したと伝えられている。

境内には白鳥塚古墳がある。
『7世紀を前後する頃、西摂平野では巨石横穴式石室を持つ池田市鉢塚古墳や宝塚市白鳥塚〔はくちょうづか〕古墳、六甲山南麓では規模は劣りますが、芦屋市山芦屋古墳や同旭塚古墳が出現します。とくに、白鳥塚古墳では大和の中枢勢力が持つ巨大な家形石棺が納められており、その影響力を後ろ盾にした西摂平野の有力首長が被葬者と考えられます。西摂平野では、この段階に大和盆地の中枢勢力と深い関係をもつ白鳥塚古墳の被葬者のもとに、まとまりを持つに至ったと言えそうです。』
群集墳の形成と巨石古墳の出現 – 図説 尼崎の歴史-古代編より

白鳥塚古墳の西400mには国指定史跡 中山荘園古墳|宝塚市という八角墳古墳がある。
古墳の形が天皇陵と同じということで国の史跡となった。

阪神一帯は河内と共に物部氏系の百済系渡来人の居住地域だった。
為奈郷 – apedia
河辺郡 図説 尼崎の歴史-古代編

そんな物部氏の勢力とつながりが強いこれらの地域に敵対する蘇我氏とつながりの強い聖徳太子(厩戸王)が建立したと伝わる四天王寺や中山寺がある。
物部守屋を射ち倒して蘇我氏(王朝)の勢力を鼓舞すると共に物部氏からの怨念を仏法力で抑えようとしたんだろうな、と想像できる。

しかし、聖徳太子(厩戸王)ゆかりの寺社や地名・名所は飛鳥以外に兵庫県では加古川市や揖保郡太子町、大阪府、京都府にも多数を数える。
これらは「厩戸王」ではなく後にスーパーマン化して付けられた「聖徳太子」の呼称を用いているので権威を付けたいがゆえにあやかろうとしたとしか考えられない。
また、有能な王だったとしても、当時のヤマト王権は強力なパトロンに支援されてきている。

厩戸王の時代は高句麗系渡来人の蘇我氏王朝だった。
従って蘇我氏王朝ゆかりの寺院が後に「聖徳太子ゆかりと称してふさわしい」→「聖徳太子ゆかり」に変化したと考える。
そもそも聖徳太子という呼称自体が蘇我氏王朝の代名詞(集合名詞)として蘇我氏ファミリー=聖徳太子を使ったんじゃないだろうか。
あえて比定しようとすると厩戸王となるが、そもそも厩戸王=蘇我馬子だったと考える方が腑に落ちる。


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