大樋橋バス停の「昆陽井掛越」の謎

イオンモール昆陽のオープンによってすっかり有名になった伊丹市営バスの西野武庫川センター前行(17・18系統)の大樋橋(おおひばし)バス停。
大樋橋 Google-mapより 

oookebashi

大樋橋バス停の名前は、用水路の取水口を昔は樋と呼び昆陽井(こやゆ)という大きな用水路の大きな取水口の場所にかかっている天王寺川に架かる橋の名から付いた。らしい。
昔、昆陽井が天王寺川を超える大きな掛樋があったことに由来する。(2015/9/20訂正)

大樋橋の下流側に橋から続く南北の道に沿って幅が2mほどの農業用水路が流れている。現在の昆陽井川だ。
昆陽井川はなんとこの橋の横で地下に潜って天神川の下をくぐって合流しないで反対側で再び地上を流れる。
koyayu 1入口
koyayu 2出口

どうしてこうなったのか謎なのだ。

昔はどうなっていたのかをウェブで探したところ、
山ウオッチング(山魚さんのホームページ)昆陽組邑鑑
という山魚さんのサイトの「宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図」という絵図を見つけた。
この絵図の大樋橋付近を見れば謎は解決して心はすっきりすがすがしくなる。

昆陽井掛越 昆陽井掛越

はずだった。
大樋橋に該当する場所にあったのは「昆陽井掛越」だった。
絵図によると玉田川と昆陽井がクロスしているではないか。

どうしてこうなったのか謎なのだ。

ちなみに昆陽井の取水口(樋)の伊丹市西野6丁目の西野橋の真下にある。
昆陽井元樋 Google-map
昆陽井元樋 昆陽井元樋

大堀川取水路 大堀川取水路
大堀川という宝塚市の売布や米谷から小浜を通って安倉の西を流れる川が武庫川に合流する手前にある。

水量を確保する為に宝塚市クリーンセンター裏に武庫川から大堀川に取水する水路は水路マニアにとっての穴場である。
宝塚やまぼうしとハナミズキの山歩きのサイトの宝塚・伊丹 逆瀬川~昆陽井川を歩くのページにも詳しく載っていた。

話を「宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図」の「昆陽井掛越」の謎に戻す。

この絵図には不可解なところがある。

・昆陽井掛越で昆陽井とクロスしている川が「玉田川」(現在の「天神川」)となっていること。
・昆陽井掛越より下で玉田川から枝分かれした川が池尻村の北端で「昆陽井」とクロスして「玉田川水伏越井路」から「玉田川井」として池尻村と西昆陽村に通じていて「昆陽井」の本流は寺本へ流れていくこと。

が謎なのだ。

「掛越」は「樋」だった

「大樋橋」バス停の名前の通り「天王寺川」に大きな樋(とい)が掛けられて昆陽井が立体交差していたのだ。

武庫川エコハイク逆瀬川と昆陽井川を歩く 第 57 回 武庫川エコハイク2012.1.14.エコグループ・武庫川(PDF)より
『大樋橋(おおひばし) 天王寺川に架かる橋。昆陽井川が川の下をサイポンで立体交差する。天神橋の改修までは木樋が天神川を横断していた。 』(出典不明)
『横手堤と尾なし堤 旧武庫川の堤跡。いわゆる霞堤。 』

これを読むと「昆陽井掛越」が文字通り「大きな樋」だったことが分かる。
謎は解けた。

ところで、ここで「天王寺川」と書いたのは「玉田川(天神川)」と間違えた、のではない。
「宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図」では玉田川になってしまうが、この絵図の玉田川の流路に齟齬があるようなのだ。

下は米軍が1948年に撮影した空中写真だ。昆陽井の大樋が掛けられたのが天王寺川と分かる。
USA-M27-2-43
これを見ると玉田川は昆陽池を過ぎたところで枝分かれして急に細くなってその1本が池尻村の北で迂回してかろうじて大樋橋で天王寺川と合流じているのが見て取れる。
現在もその名残の水路がクボタグラウンドとモデルハウスの間から尼宝線を少し下ってイオンモール昆陽の南側に残っている。

昔は玉田川と天王寺川が現在のように合流していたのではないか?
という仮説もあり得るが、もしそうなら痕跡が残っているものなのだ。

探せば見つかるもんだ。
元文5年(1740年) 池尻村・新田中野村境堤争議絵図(池尻部落会所蔵)
元文5年 池尻村・新田中野村境堤争議絵図(池尻部落会所蔵)
地震本部(政府 地震調査研究推進本部)兵庫県地域活断層調査(六甲断層帯)業務より)
これを見ると空中写真と同様に玉田川はその一部が昆陽井掛樋(大樋橋)で合流しているのが分かる。

明治の地図を見ても同様だ。
f3-2-3l
地震本部(政府 地震調査研究推進本部)兵庫県地域活断層調査(六甲断層帯)業務より)

余談になるが昆陽井の先端はどうなっているのか?
何本もの溝に枝分かれして田畑に繋がって消えてなくなるのか?

もしそうなら雨が降った時に排水できなくて困ってしまう。
ちゃんと川に繋がっていて最後は海に流れていく。

南野村、御願塚村は昆陽川へ、池尻村、西昆陽村、寺本村、堀池村、野里村、山田村、常松村、富松村は富松川へとつながって、
昆陽川と富松川は名神高速道路尼崎インターの南で庄下川となって阪神尼崎駅の東を流れて海に至る。
自分でたどって確かめたので間違いない。

参考:第1回 神崎川圏域河川整備計画懇談会 整備計画懇談会資料 流域及び河川の概要 平成19年8月24日 – 兵庫県(PDF)
  兵庫県/第1回神崎川圏域河川整備計画懇談会より
  内水排除施設(下水道等)の現状 – 兵庫県
  荒神川. 富松川. 昆陽川. 天神川. 支多々川. 武庫川. 亥の谷川. 大堀川. 足洗川. 勅使川. 最明寺川. 寺畑前川 – 兵庫県(PDF)

さて、いよいよ昆陽井と玉田川井のクロスの謎に迫ってみよう。

昆陽下池の謎

現在の昆陽池は昆陽上池にあたり、昆陽下池は1608年に堤が切られて無くなった。

昆陽池/伊丹市ホームページより
『江戸時代の絵図などでは周囲1里(約4キロ)とされる大池で,昆陽・寺本・池尻の3ヵ村が用水として利用していました。この池は行基が造った池のうち昆陽上池にあたると考えられます。昆陽下池は上池の西方にありましたが,慶長13年(1608年)に埋め立てられました。』
とある。

資料が見つからない。

昆陽井は古山陰道を利用して敷設された

探していると興味深い論文が見つかった。
「難波京から有馬温泉を指した計画古道」(足利健亮 1978)という論文。
これは『難波京から昆陽を経て武庫川谷口を直指する計画古道の存在を明らかにしている。』のだ。
引用してる論文を見てみる。
「播磨・西摂の計画古道と条里」(吉本昌弘 1982)(PDF)より
『Ⅲ.難波京へ通ずる古山陰道をめぐって』より
『 さらに筆者はこの計画古道が単なる丹波路であったとは考えていない。というのは、難波京を中心に考えた場合、丹波国への最短距離にあたり、難波京が正都となった時代の山陰道と考えるのがきわめて自然であるからである。さらに飛鳥・藤原京時代にも山陰道として機能していた可能性が高いものと考える。「古事記」垂仁段には出雲へ行くのに「那良戸よりは跛盲遇はむ、大坂戸よりも赤跛盲遇はむ、唯木戸ぞ掖月の吉戸」とあり。那良戸が山陰道への出口にあたると考えられるから、大坂戸も同様に山陰方面への出口と考えてよいからである。おそらく河内国の丹比道を経由して難波京に至り、難波京から上述の丹波道へ続くルートが那良戸より北上するルートと共に山陰道として意識されていたのであろう。とにかく、難波京は長岡遷都まで存続したのであるから、武庫川河谷の計画古道が奈良時代を通じて山陰道として意識されていたことには違いないであろう。
 これに関して足利健亮は「難波京から有馬温泉を指した計画古道」と題する論文において、難波京から昆陽を経て武庫川谷口を直指する計画古道の存在を明らかにしている。以上述べてきた有馬郡の計画古道は、山口から宝塚の生瀬へ抜け。ほぼ間違いなしに足利のいう計画古道に連続するものと考えられる。そこでこのルートが難波京からの古山陰道に相応しいものであると考えられる2、3の点をあげてみたい。
 「日本書紀」には三度の有馬温湯行幸の記事がある。おそらく奈良時代にもいく度かの行幸があったものと想像される。さて、大化三年十月十一日条には「天皇、有馬温湯に幸す。左右大臣・群卿大夫、従なり。十二月の晦に、天皇、温湯より還りまして、武庫行宮に停まりたまふ」とある。大化改新事業をおえた孝徳天皇ら一行は、新都「難波京」から有馬温湯へ行幸したと考えるのが正しい。従って武庫行宮は、難波京と有馬温湯を結ぶ線に沿って存在したと考えられる。足利氏復原の計画古道に沿って宝塚市大字「蔵人」内に小字「高司」がある(第8図)。「高司」は「主鷹司」という官職名から来たものと考えられ、「日本三代実録」には次のような注目すべき記事がある。「弘仁十一年以来、主鷹司鷹飼州人犬州牙食料、毎月充彼司。其中割鷹飼十人犬十牙料、充送蔵人所」つまりここでは、主鷹司と蔵人所とが密接な関係にあったことが伺える。しかも「蔵人」「高司」の地名の由来は蔵人所と主鷹司にあったと考えられ、両者は天皇とも密接に関係した役所と考えられるところから、両地名が計画古道に沿うことは武庫行宮の位置を考える上できわめて示唆的である。さらに「高司」の西を限る小河川は「ごんじょ川」とよばれ、「御所川」の意と解することができる。またその約1町東に小字「御所垣内」があり、その地積が方1町であることから、筆者はこの地が武庫行宮址にあたるのではないかと考える。以上述べたように蔵人や主鷹司の役所や武庫行宮が計画古道に沿うことが注目される。
第8図 宝塚市域の計画古道(A-B-C-D-E) 次に注目したいのは、「高司」と計画古道を隔てて「御所前」の地名があることである。大化改新詔にあるように、古代の駅路には駅家が設けられたが、その駅間距離は養老令によると30里、約16kmである。難波京を都亭駅とすると武庫川あたりに一駅が置かれたことになり、「御所前」は正に武庫川右岸にあたる。一方、駅家の存在が確かめられている地点には「マエド」「マエイケ」|フルマエ」などの地名が残り、これは「ウマヤ」が「マヤ」さらに「マエ」と訛っていったものと考えられている。以上の二点から「御所前」を「御所の近傍に置かれた駅家」と解すると、今問題にしている計画古道は正に古山陰道と呼ぶに相応しい駅路であったということになる。
 また次の点も参考になろう。『有馬郡誌』には「郡の山口村に字奉尊堂といえるが残り、孝徳天皇を祀れるあるは蓋し当時の行宮の跡なるべく、此の地点は天皇が長柄豊崎宮より西して武庫郡見佐より武庫川を渡り、蔵人村なる武庫行宮に入られ、武庫川の西岸を今の生瀬、名塩を経て、有馬山を横ぎり、有馬山口に着き、此の行宮に着御ありしものの如し」とあり、その奉尊堂址が、有馬温泉から北へはずれた想定古道上に位置するのである。』

「摂津国有馬郡を通る計画古道と条里」(吉本昌弘)(PDF)より
『三、計画古道の意味
 さて、この計画古道の存在意味を考えていくと、単に難波から丹波国へ通ずる交通路ではなくて、実はこれが、難波に都が置かれた時期、ことによると飛鳥・藤原に都が置かれた時期にも存続し続けた古山陰道ではなかったかと考えられるのである。
 これに関して足利健亮は「難波京から有馬温泉を指した計画古道」と題する論文において、難波京から昆陽を経て武庫川谷口を直指する計画古道の存在を明らかにしている。以上述べてきた有馬郡を通る計画古道は、山口から宝塚の生瀬へ抜け、ほほ間違いなしに足利のいう計画古道に連続するものと考えられる(図5)。このルートは、難波から丹波へ通ずる最短路にあたり、難波京からの山陰道として極めて自然である。従ってこの古道が、難波に都が営まれた孝徳期、天武期、たよぴ聖武期の難波京から発した古山陰道であった蓋然性は高く、奈良時代を通じての要路であったと考えられる。
図5.摂津国の計画古道(足利論文より)大化三年に既にこの計画古道が完成していたのであれば、『日本書紀』にみえる孝徳天皇一行の有馬温泉行幸は、この古山陰道を利用したものと思われる。『有馬郡誌』、に「郡の山口村に字奉奠堂といへるが残り、孝徳天皇を祀れるあるは蓋し当時の行宮の跡なるべく、此の地点は天皇が長柄豊崎宮より西して武庫郡見佐より武庫川を渡り、蔵人村なる武庫行宮に入られ、武庫川の西岸を今の生瀬、名塩を経て、有馬山を横ぎり、有馬山口に着き、此の行宮に着御ありしものの如し」と伝える奉奠堂址か、有馬温泉から北へはずれた想定古道上に位置することも、そういう事情を物語っているのではあるまいか。またコアザ「京口」の意味あいも、想定古道を古山陰道と考えることによって一層理解しやすくなる。』

古山陰道にそって昆陽井を敷設して南野村に導水してきたために現在に至るまで古山陰道の痕跡が保存された。
なんともロマンチックでありドラマチックである。


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