弥生時代の銅鐸は中国長江文明の銅鐘が起源

銅鐸は古代中国の長江文明の銅鐘が紀元前5世紀から紀元前3世紀に、つまり春秋戦国時代に移民や難民(=弥生人)が集団で日本にムラ単位で入植して広めた。 

朝鮮半島では銅鐸・馬鐸として、日本では北部九州から島根半島や瀬戸内海に沿って中国、四国、関西、中部、東海、北陸へと移住して銅鐸として広まった。
初期の銅鐸はムラの中央の高床の掘立柱建物の棟に吊るして祀ったのが自然に思える。
紀元前2世紀と起源頃にムラが別の信仰を持つ権力者によって統合されてクニとなるときに埋納された。

  • 擂鼓墩 古代音を伝える曾侯乙の編鐘_人民中国より 
    『擂鼓墩 古代音を伝える曾侯乙の編鐘
    丘桓興=文 魯忠民=写真
    擂鼓墩は、湖北省随州市の西の郊外、省都・武漢市から北西へ155キロ離れたところにある。2000年以上前の春秋時代(紀元前770〜同476年)に、楚王がここで太鼓を叩いて(擂鼓)、突撃する兵士を鼓舞したことに由来する。
    1978年、湖北省博物館が2400年以前の曾国の王・曾侯乙の墓を発掘した際、大量の青銅器や漆器、陶器、玉器と竹簡などの貴重な埋蔵物1万5400点余りが出土した。その中で、「古代冷蔵庫」と称えられている青銅製の鑑缶(酒を冷やしたり温めたりする容器)や、彫刻が精美な大金盞、16の環が繋げられた龍鳳玉飾りと「二十八宿図」を描いた衣装箱など、いずれもまれに見る国宝といえる。とりわけ完全に保存された65個の鐘を備えた編鐘は、現在でも各種の曲を演奏できることから、各国の考古学界で世界音楽史上の重大発見と見なされている。

  • CiNii 論文 –  < 論文>弥生時代の銅鐸の文様の源流について(本文PDF 2001年)より
    『銅鐸の装飾は,銅鼓と縦横の幾何学文帯による構成である点では共通するがそれは他の器種にも見られたこと,また幾何学文は銅鼓にはない文様も使用されているがそれらの文様は他の器種には見られたこと,などから銅鼓とだけ深い関係があるのではない様子が浮かび上がってきた。ここで,これまでに挙げた各種の青銅器の出土地を見てみると(地図参照),殆どは万家鰯型銅鼓及び石寨山型石寨山系銅鼓の分布地域と重なり,また少数のものが越族青銅器の分布地域と重なっていることが分かる54)。これに上記の船文における結論を加えると,本稿の範囲からは,銅鐸の装飾は,むしろ戦国から前漢の銅鼓の分布地域,即ち長江上流域の雲南・四川南部や東南の広西などの地の青銅器文化と近い関係があり,また越族の青銅器文化とも共有する部分があり,沿海の中国南方地域の世界とも無縁ではないということであろう。』
    ※PDFファイルはページが逆になっているので最後のページがトップです。

  • 浙江省人民政府公式ホームページ – 浙江省の舞踊より
    『不可避的に祖先祭祀、神霊、英雄崇拝が一体に結び付いた音楽・舞踊は、浙江省の他の地方にも見られる。例えば、金華市磐安県深沢郷金溝遺跡から出土した商周楽器青銅鐃は、祭祀用具であると共に、士気高揚のための手柄者祝賀宴会のときの打楽器でもある。春秋戦国時代、浙江省は呉、越の覇権争いの地であった。呉が滅亡して越になり、後に越が滅亡して楚になる。秦が中国を統一してから、全国を36郡に分けた。その時期に、巫呪術的舞踊が流行した。「浙江の古百越人……先秦時期……祭祀は厖雑で、巫術が流行した。」(于彤《浙江风俗概说》)巫の仕事は、音楽・舞踊で神様を楽しませることであり、また、巫術の中の巫舞は特殊形式の民間舞踊である。余杭良諸反山遺跡から出土した文物の中に、遅い、速い太鼓の音にあわせて歌い、袖を振りながら舞う絵がある。また、浙江省嘉興市海塩県長川壩で戦国時代初期の原始磁質楽器45点、編鐘1組13点、及び紐鐘、勾鑃鐓于などの多くの楽器が発見された。それらの楽器の出土は、古越の王侯貴族、少なくとも資産家の当時の歌舞享楽を証明している。紹興306号戦国墓から出土した銅屋模型は、中に楽師が6人跪いており、前列東一番は太鼓叩き、西二人は歌い者、後列の三人はそれぞれ笙や琴を奏でたりしている。銅屋に舞う巫はいないが、歌舞で神を楽しませる儀式であることは明らかである。』
  • bo 鎛 | bronzes chinois antiques 中国古代青銅器より


    bo 鎛 (Shang 商)

  • 弥生時代の銅鐸とドンソン文化の銅鼓の類似性」
  • 弥生青銅器祭祀の展開と特質2014年2月(PDF)
  • 鉛同位体比による青銅器の鉛山地推定をめぐって(PDF)  新井宏(ARAI Hiroshi)のWWWサイトより ※ここ注目!
  • 【歴史のささやき】「弥生」のイメージを変えた“インディ・ジョーンズ” – 産経ニュース 2015.5.1 07:02より
    2015.5.1 07:02
    【歴史のささやき】
    「弥生」のイメージを変えた“インディ・ジョーンズ

    佐賀県神埼市の川寄吉原遺跡から出土した鐸形土製品
     考古学者といえばトロイを発見したシュリーマン、ツタンカーメンの墓に行き当たったハワード・カーターが有名だ。彼らの発見は結果的に大きな学術的意義をもったにしろ、実のところ「一山当てよう」という野心があったことは否めない。

     「宝探し的な発掘は不純だ」といわれる向きもあるが、むしろ、ハリソン・フォードふんする考古学者インディ・ジョーンズの映画のように、誰しも発見に対する冒険心や、野心は持っている。

     さて、日本の考古学の業界では銅鏡や銅剣・銅矛、銅鐸など青銅製品を、「青物」と呼ぶ。弥生時代の発掘では、この「青物」を引き当てるのが、無上の醍醐味(だいごみ)とされる。

     ところが、発掘を始めるや、たちまち「青物」に恵まれる幸運な考古学者がいる一方、長年、発掘に携わりながら、「青物」に、まったくといってよいほど恵まれない人もいる。佐賀県教育委員会文化課に所属していた天本洋一さんも、そんな1人だろう。

     彼は、1千基以上の甕棺墓(かめかんぼ)を発掘したが、いっこうに副葬品の「青物」の発見に至らない。それでも、黙々と発掘調査を行っていた。同僚の間では「青物に縁のない人」として通っていたし、それが一見地味で、真面目で、おとなしい性格の「彼らしさ」とさえ思われていた。

     このインディ・ジョーンズの対極にあるような考古学者が、弥生時代の研究史を塗り替える発見をいくつもしていた。

     吉野ヶ里遺跡周辺でよく出土する鐸形(たくけい)土製品(どせいひん)のことで彼と話をしていたときに、そのことに気が付かされた。

     銅鐸(どうたく)に似た土製品を、九州で初めて発見したのは天本さんだった。しかも、表面には、戈(ほこ)と盾を持った戦士の像が描かれていたのだ。九州の弥生時代の本格絵画として初見であったし、九州での銅鐸文化存在を予感させるものだった。

     この土製品が出土した遺構が、地面に柱を埋める穴「柱穴」であった。この掘っ立て柱建物の跡は、長辺8・2メートル、短辺4メートルと、弥生時代の大型建物として最初に確認されたものだった。

     当時、大型掘っ立て柱の建物は飛鳥・奈良時代からと言うのが常識で、現場を見た私も「時代を間違っているのではないか」と疑った。私の疑念に天本さんは無念の表情を浮かべた。

     正しかったのは天本さんだった。この遺跡発掘で培われた見識が、吉野ヶ里の大型建物の発見につながる。その後、全国各地で次々と大型の弥生時代の建物が発見され、弥生時代の建築文化・社会が大きく見直されることになった。

     弥生時代といえば、のどかな原始的な農村社会だったというイメージがある。だが、巨大な環壕が巡る中に、祭殿であったり、大型の高床倉庫だったり、物見櫓(やぐら)といった性格の建物があったのだ。部族間の抗争を通して「クニ」などの政治的社会が生成する、実に激しい変化の時代だった。そして文化も、従来の想定より高度だったと考えられるようになった。天本さんの発見は、弥生時代の見直しを迫る端緒となった。

     ほかにもある。佐賀県小城市三日月町の土生(はぶ)遺跡で、日本ではじめて朝鮮系無紋土器が確認された。40年前、私が佐賀県に着任して間もないころだった。

     弥生土器には見られない取っ手があり、表面が黒光りする土器であった。天本さんが持ってきたこの奇妙な土器を調べると、朝鮮半島の青銅器時代特有の土器に属するものと分かった。半島からの渡来人がこの地で製作したものだった。最近の研究からは、この土器を製作した人々が、青銅器の製作技術を日本列島に伝えたことが明らかになっている。

     一見、地味な発掘調査の積み重ねが、実は、歴史の見直しにつながっていることに、今更ながら気がつかされる。考古学には定説はないというのが私の実感である。ちなみに、土生遺跡を国史跡に推挙したのは、九州国立博物館の前館長、三輪嘉六さんである。(旭学園理事長 高島忠平)


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